【短編小説】カンヅメの歌(4)

 チョークを持ったまま、リナンは黒板に向かって身を固くした。数秒が経っても答えないリナンに、雄太郎とその周辺が「ほらあ、リナンだって歌えねえんだぞ」「だから俺たち、『君が代』なんて、知らないんだってば」「なんも教えない方が悪くねえ?」と騒ぎ出す。
 意外な展開に戸惑ったらしい光村は、リナンの肩に急いで手を掛けると、「リナンさんは、ちゃんと歌ったんでしょ?」と改めて尋ねてきた。
 従軍慰安婦、徴用工問題、それに、戦争犯罪者。頭が壊れたよう、考えがめちゃくちゃになったリナンは、黒板に向かってうつむいたまま、「歌ってません」それだけを絞り出した。失望した表情の光村が口を開く前に、リナンは続きを喋った。
「私は、日韓ハーフですから、『君が代』の歌詞、天皇を崇めてるのがきついんです」
 そこで社会科担当の光村は、はっとした顔をした。六列の、縦並び五席で座っている生徒たちはわけが分からないらしく、一様に黙っている。
 光村は、細かく震えているリナンに背を向けた。そして彼女は眼鏡越しに、後ろ隅の掃除用具入れから、こちらを見上げている生徒たち、そして、湿気でガラスにくっついたカーテンまで、教室のすみずみを見渡した。そのたたずまいは、どう見ても、こわごわしていた。
 彼女は、ふっくらした両手を宙で握り合うと、私は言葉を慎重に選んでいます、といわんばかりの口調で、生徒たちに説き始めた。
「太平洋戦争で、日本が周りの国を侵略しようとしていた歴史、みなさんは習いましたよね?その相手に、韓国も入ってたのは覚えてますか」
 背後にいるリナンに、光村は神経を張っていた。それは「過剰なほど」あからさまで、姿を目の当たりにしたクラス中が、水を打ったように静まる。
「あの戦争では、昭和天皇が国民から、『神様』として崇められてて……つまり『君が代』は、神様の治める世の中が永遠でありますように、そういう歌なんですね。侵略するにあたって、天皇の為だから、って日本人は言い合わせて、いろんな『ひどいこと』を韓国の人たちにしてたんです。リナンさん、きついのは、そういう事情でしょう?」
 ようやくリナンは黒板から離れて、同級生にくるりと体を向けて、うなずいた。
 初耳の話ですけど。みんなの目はそう言って、リナンを気まずく避けていた。

 ホームルームが終わって、所在なくひとりで席に着いたリナンは、光村と目が合った。こちらにやってきた光村は、中腰になってリナンの横にかがむと、申し訳なさそうに視線を一瞬外したあと、意外なことを頼んできた。
「卒業式、ですけど……事情が事情ですから、リナンさん、『君が代』は歌わなくていいんです。でも、本番では来賓の方が来られます。だから、せめて、『口パク』でお願いできませんか?」
 中庭に降っていた小雨は細かい霧雨に変わっていて、しっとりとした空気が、窓ガラスの隙間から教室に侵入してくる。その、リナンにまとわりつくようなうっとうしさは、懇願せんばかりに光村がみせてくる、上目遣いとそっくりだった。