【短編小説】カンヅメの歌(1)
そのときリナンは、開け放たれた二階の窓から入ってきた桜のひとひらが、柔らかい風に乗って、はかなく落ちゆくさまに魅入られていた。そのためリナンは、どぎつい赤や緑のビニールテープが貼られた体育館の床に着地したそれが、寺崎先生の灰色の靴下で無惨に踏みつけられた姿も見てしまった。
せっかくの早咲きの桜に、なんてことすんのよ。斜め前に立つ、学年主任を務める数学教師の彼を、リナンはきつく睨んだ。
そうとも知らない、黒いスラックスにワイシャツ姿の寺崎は、まくった袖の腕組みを固くして、きっと染めたのだろう、不自然に真っ黒いオールバックの頭を左右にゆっくり動かし、小さな両目で警戒するよう周りを見ている。卒業式の練習は、国家斉唱の場面に差しかかっていた。
ピアノ伴奏を務めるリナンの同級生、中岡芽衣子が、一つ結びした長い黒髪を背中に垂らして、厳粛なタッチで『君が代』のイントロを弾き始めた。しかしながら、歌が入るところで、体育館にいる六十人ほどの生徒たちは、歌わない。前方の壇上でピアノを弾き続ける芽衣子を眺めてみたり、隣にいる生徒と顔を合わせてみたり。生徒たちはみんな「困った顔」をして、その場に立っているだけ。
横四列に並んだ生徒たちの前に出た寺崎は、芽衣子に向かって伴奏を止めるよう荒々しく手を振ると、しかめ顔で、厚い胸板を反らせて声を張り上げた。
「ちゃんと歌え!お前たちの、卒業式の練習だろう」
いつ、どこで、誰が、卒業式とか、「してほしい」なんて頼んだっけ?
165センチと背が高く、列の最後尾にいるリナンは、怒れる寺崎をどこか小馬鹿にした気持ちで眺めつつ、こげ茶色に染めた肩までのくせっけを、薄紅色のマニキュアが塗られた爪でもてあそぶ。
すると、リナンの左横にいた同じクラスの新城雄太郎が、横柄に後ろ手を組んで、これ見よがしに、波にもまれる海藻のよう、体をだらしなくふらつかせ始めた。前を開けっぱなしにした制服のブレザーと、ゆるめた赤いネクタイも一緒に揺らしながら、野球部の規則で坊主頭にした雄太郎は、語尾を伸ばして皮肉っぽく寺崎に口答えした。
「先生はそう言いますけどお、この曲、歌えませんよお。なぜなら、僕たち、知らないからあ」
大股で雄太郎のもとにやってきた寺崎は、「知らない?それ、どういうことだ」と、尋問まがいにすごんだ。お調子者のトラブルメーカーで、こういった状況に慣れっこの雄太郎は、失敗した福笑いみたいにパーツの散らばった顔で、いたずらっぽく寺崎を見上げる。
「歌詞も、メロディも、知らないんですよお。そんなの、歌えなくて当然でしょ」
「知らない、って、『君が代』は日本の国歌だろうが。お前、言ってて自分で恥ずかしくないのか?」
「恥ずかしくなんて、ありませんよお。こっちは何も、教えられてないんだしい。本当に恥ずかしく思うべきは、教えてないのに歌わせようとする方じゃ、ありませんかあ?」
そして、雄太郎はリナンに振り向くと、「な、リナンもそう思うだろ?」と援護射撃を求めた。壇上でピアノに向かって座ったまま、円い黒フレームの眼鏡を掛けた芽衣子が、リナンに「どうにかして」といわんばかりの視線を送ってきているのも感じられて、リナンはひどく煩わしい。
「――雄太郎、屁理屈やめよ?卒業式の練習、いつまでも終わんないじゃん」
寺崎の味方をするのも癪だけれど、こんなトラブルにも付き合いたくない。おそらくは、「さすが学級委員長」という顔をしているだろう寺崎も、「なんだよ、ノリ悪いな」という顔をしているだろう雄太郎も見たくなくて、リナンは発言してからそっぽを向いた。
急に強い風が体育館に吹き込み、さっき寺崎に踏まれた桜のひとひらが床からはがれ、あっけなく飛んでいく。それに気付いたリナンは、自分が桜よろしく「うすっぺらい」まま、中学生活がつまらなく終わろうとしていることに、ひどい虚しさを感じた。