ブックレビュー『未来をつくる言葉-わかりあえなさをつなぐために-』ドミニク・チェン
本書は著者自身の経歴や、娘との関係を具体例として挙げながら、分かり合えないことと、他者との関係性について語ったものだと把握している。
エッセイのように軽くはない部分もあるけれど、全体を通して論理を駆使して主張を展開させていくのではなく、研究や日々の生活のベースにある思いや考えを紡いでいくように書き記してある。
ブックレビューというよりも本書を読みながら、考えたことについて書こうと思う。
環世界
「環世界」という言葉を初めて知ったのは、五十嵐大介の『ディザインズ』だった。
その時、ぼんやりとこんな感じなのではないか、という言葉にしきれなかった考えに形が与えられたような感覚となり、世界の在り方が変化したように思えた。
本書に環世界の概要について書かれているので、引用する。
さらに言葉を扱う人間にはさらに言語的な環世界が重ね合わせれており、用いる言語によって、思考の仕方や事象の捉え方、人やモノとの関係性が変わってくるという。
確かに、異種の生き物、たとえば身近な犬や猫も人間と同じ空間にいても、空間認識の在り方は違うだろう。人が小物を置くために設置した台を猫は遊び場として捉えていたりもする。
これは異種同士だけではなくて、人間同士も言語だけでなく、身体的特徴や育ってきた環境、これまでの経歴、視力などの感覚の強弱、そのときの気分によって世界を多様に捉えていると思われる。
例えば、色弱である人とそうでない人では、視覚的な捉え方が大きく違うだろう。
分かりあえなさの拡大
コミュニケーションは分かりあうための手段と考えられがちだが、同じ言語であっても、分かりあうどころか分かりあえなさが広がってしまうことが多々ある。
さらに、SNSやインターネットによって、他者と繋がる手段が増えたはずなのに、距離がより遠く感じられるようになった気がすることもある。
なぜ、繋がりやすくなったはずなのに、他者の隔たりを感じてしまうのだろうか。
僕が思うに、個人の嗜好性や興味のあるものだけに取り込まれると、自分とは違う人、趣味の合わない人、思想の異なる人と厚い壁で隔ててしまいがちになってしまう。その結果、価値観が共有されず、独りよがりになりがちで、さらに自分とは価値観の異なるものを拒んでしまう傾向になるからだろうか。
また、そもそも他者やその他生き物を含くめ、相手を「分かりあえないもの」ではなく「分かってくれるもの」「思い通りになるもの」という前提でいるのではないだろうか。
それぞれが持つ環世界によって捉え方が異なるはずなのに、誰もが機械のように同様の世界を見ていると思い込んでいるがために、自分との違いを受け入れずらいのではないか。
僕は頭では各々の価値観や趣味趣向は異なっていると理解している(つもりだ)が、いざ他者と何かの問題について意見や考えを伝えると、その反応の仕方でついムキになったり、なぜ通じないのだろうと思ってしまうことが多々ある。そして大抵の場合、後に反省することになる。
「対話」と「共話」
筆者は、差異を強調する「対話」だけでなく、自他の境界を融かす「共話」の活用も重視している。
共話とは互いに協働しあいながら、会話をつくる。相手のフレーズに言葉を重ねて会話を完了させたり、相槌をうって話を促すような行為であるという。
共話によるコミュニケーションはお互いに意見や主張を言い合うのではなく、それぞれの身体や言葉など様々な手段を通して、新たな環世界をつくりだす行為のように思えた。
なぜ共話も重視するのか。
各個人は閉じた世界を持っている。しかし決して何とも関係を持たずして生きているわけではなく、その意味では完全に閉じきっているわけではないだろう。「個人」として閉じているようにみえるだけで、常に外の世界との接点、言い換えれば外の世界と混ざり合う出入口を持っている。
私と他者を含む外界は相互にかつ複雑に影響し合い、フィードバックしながら人は「個人」として在り続けている。
外の世界と関係を持つことは、環世界はその人固有のものではなくその時、その場所、その手段によって新しい環世界を生む可能性を持っている。
確かに、他者や多種多様な生きものを理解することは容易ではないし、完全に分かりあうことは到底できないだろうと思う。
だが、常に開いているはずの「個人」のなかに閉じこもり、他者との「対話」に終始してしまうことは、日差しによって照らされる一方で影もできるように、考えや思想、興味関心事が近い人とそうでない人を明瞭にしてしまうのではないだろうか。
つまり、「分かりあえるもの」と「分かりあえないもの」で二分する傾向を強めてしまうように思える。
「分かりあえるもの」だけで構成されていれば、それで構わないかもしれない。しかし、世界は「分かりあえないもの」で溢れており、計らずも分かりあえなさに当惑してしまう。
分かりあえないからこそ、差異を明確にする「対話」ではなく、分かりあえなさから新たな価値観を創造する「共話」が求めれるのではないだろうか。
コミュニケーションの意義
「対話」によるコミュニケーションは互いの価値観や意見、考えを明確にする。よって、相違があった場合はその違いを受け容れて、新たな考えを紡ぐのではなく、どちらが正しいのかという言い合いに終始してしまうと思われれる。
つまり、私たちは他者や多種多様な生きものと関係を持つ上で、「分かりあえない」ということを前提として「共話」によるコミュニケーションが求められる。
いくら他者との繋がりが増したとしても、他者とは「分かりあえなもの」であり、「対話」を前提とする限り、互いに歩み寄ることは難しそうである。
僕が意見や考えに対する反応によって、ムキになったりしてしまうのは「対話」によるコミュニケーションをしていたからだと思う。僕と相手のどちらが正しいのか、そうでないかということを無意識に前提として会話をしていたのかもしれない。
そうではなくて、互いの分かりあえなさから新たな価値観や考えを育むという「共話」を前提として他者の言葉に耳を傾けなければいけないのだろう。
p69に「言葉でしか記述できない事象もあるが、言葉の網からこぼれ落ちる事象もまた、世界に満ち溢れている」とあるように、言葉という手段によって生まれる環世界もあるが、言葉では形を与えることができない事象もある。
言葉だけに頼るのではなく、様々な手段を通して「共話」を紡いでいけたらと思う。
共存感覚の有無
話は変わる。『タイプトレース』の話から考えたことがあった。
著者が研究をかねて行っている『タイプトレース』で書かれた「遺言」や、舞城王太郎が執筆した小説の経緯を読んで、僕がSNSやネット上のコメントにやや抵抗感を持つ理由が分かったような気がした。
パソコンやインターネットが普及してから、書き手の筆跡や修正、編集者による校正の跡など、文章を書いた痕跡をみる機会がほとんどなくなった。読み手に届くまでの文章のプロセスは省かれているのである。
そこで、キーボードで文章を書いても書き手の身体的な痕跡、「デジタルアートの筆跡」を見ることができる『タイプトレース』を作ったという。
先に述べたように繋がる手段は増えたが、例えばTwitterや某ニュースサイトのコメントは、その発言に至るまでの過程を書き手は伝えることができず、読み手も知ることができない。結果だけをしかも短文で載せることは、どのような経緯で、何を思って、書きながらどういう気持ちだったのか等、書き手のプロセスで起こった機微を感じることができない。
効率性や必要性から見れば無駄な情報かもしれないが、書き手の心の動きが分かるか分からないかで、そのコメントの捉え方も大きく変わってくるように思える。
これは僕だけかもしれないが、書き手の過程が見えないことで、どのような文章だとしても暴力的に言葉を投げかけられているような気分になってしまう。いきなりノックもせずに部屋のなかに入ってきたような、一方的な行動に戸惑ってしまう。
本書では”共に在る感覚”を関係性において重視しているが、この考えを用いると、ネットやSNS上では”共に在る感覚”が非常に希薄だと感じる。同じ対象について互いにコメントをしていたとしても、一向に交わる気がしない。ここでも「対話」が主流となり、誰もが自分という閉じた世界から出ようとせずに、自己完結しがちではないだろうか。
おそらく、そのような意図がはじめからあるというよりも、ネットやSNSという手段が、互いに閉じこもった世界の中でやりとりをさせてしまっているように思える。
相手の心の動きや、反応、身体を感じることができず、互いに自分の世界を開いて、交わることが難しいがために共に在る感覚をつかむことができない。
その結果として、僕はネット上のコメントやSNSでの言葉を一方的に突きつけられているように感じてしまい、うまく取り込めなのかもしれないと思った。
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