ブックレビュー:小川さやか『チョンキンマンションのボスは知っている-アングラ経済の人類学-』
香港に渡ってきたタンザニア人たちがいかにして商慣行、商実践を行い生計を立てているのか。また生計を立てていくために彼ら/彼女らが張っているネットワークにどのような特徴があるのかについて書かれたエッセイ。
これは僕の能力不足かもしれないが、どうしても論展開に腑に落ちないところが見受けられた。大きな破綻ではなくて、論と論のあいだにちいさな隙間が空いているような、流し読みならば気にもならないかもしれないが。
本書はあくまでエッセイであるし、著者も書き慣れていないと仰っているので、あまり論展開に固執して読むべきではないかもしれない。
ただ、納得いかないままではレビューも書きにくいので、僕なりにその隙間を埋めるようにして感想を書こうと思う。
信用のままならない他者
香港に滞在するタンザニア人たちは移民ではなく、商人として生計を立てるために香港に渡ってきた。その手段や方法は様々で、日本に住む僕からすればクリーンな者よりもグレーやほぼクロのような者たちばかりだ。
彼ら/彼女らはあくまで商売人であるため、富める者もいれば貧しい者もいる。ただ、ぼろ儲けしていたとしても、その後も儲かる保証はなく、不安定で不確実な社会では没落することは珍しくない。
香港が終の棲家となるわけでなく、あくまで稼ぎのために、商機と捉えたために渡っている。そのため、状況によって香港を去るものは少なくなく、タンザニア人たちは流動的で、常に同じメンバーが香港にいるわけではない。
多くのタンザニア人は何かしらの事情を抱え、グレーな(ほぼクロな)手段で移住、滞在していることを互いに了解しており、移り変わりが激しいため、お互いにその時、その場での関係に留まっている。敢えて他者に踏み込まなことにより、他者を「知らない」ことで様々な人と付き合うことができ、かつ自分の身をも守ることに繋がるという。
また、香港に留まる者たちも、懐事情は人それぞれであるし、同人物でもその時々で潤ってもいたり、すっからかんだったりもする。先述したように、香港のタンザニア人たちは様々な事情を抱えており、その置かれた状況で人は様々な顔を見せるため、単純にその人物を信用することはせずに、その時々の置かれた「顔」によって信用するときもあれば、信用しないときもあるという。
盲目的な信用
この香港のタンザニア人たちの”信用”の在り方を知ってはじめは、騙し騙され、敵だらけで人間不信に陥りそうだなと思ったが、しばらくこのことについて考えると、むしろ香港のタンザニア人たちの”信用”関係のほうが自然なのではないかと思った。
日本を含め、ネット環境が整い、現実世界と強く入り組んでいる社会では、Amazonや食べログ、メルカリなどの評価を判断基準にして買う買わない、行く行かない選択をしている。
僕の場合、面白そうな本を探すときにAmazonのレビューや★数を参考にするし、メルカリで購入するときは出品者のプロフィールや★の数を確認してしまう。
これまで何の疑いもなくしていた行為だけど、なぜ顔も名前も素性も知らない他者の評価を信じているのだろうか。価値観や感性、好みは異なるはずなのに、なぜ信用してしまうのだろうか。
はっきり言って、信じられる根拠はなさそうである。他者は嘘をつかないという前提があって、その評価を信じているのかもしれない。しかし、評価が高いから面白いだろうと踏んだ本がたいしてつまらなかったり、飲食店もなぜここまで絶品しているのかが分からないところもあった。それでも、今も変わらず評価を確認している自分がいる。
あらためて考えてみると、このように見ず知らずの他者がつけた評価で判断していることは、自分の感性や好みを殺して、”みんながいいと思うもの”を選んでいるだけではないだろうか。もちろん、どうせ買うなら、食べるなら失敗したくないという心理が働いているのもあるだろう。しかし、他者がつける評価と異なる捉え方をした経験があるにもかかわらず、それでも信じ続けることに、他力本願で自分の感性を捨ててしまうほどの呑気さに愕然としてしまった。
一方で、タンザニア人たちは他者を全面的に信用はできないから、何を誰を信じるじるかは自分で判断して決めている。つまり自分を信じて、自力本願で決定を下しているのであろう。
話を戻そう。
本書では、このような流動的で全面的な信頼ができないメンバーたちが「ついで」で助ける関係性を築いていることに注目している。
「ついで」の助け合い
一般的に助け合いというのは、純粋に助けたい!という思いから、無償で手を差しのべることもあるが、助け”合い”とあるように、助けを頼まれた場合、私が今回助けたから、いつか私を助けてよね、というような互酬性を期待していないだろうか。
それによって、助けられた方は借りをつくってしまったという負い目を感じることにもなるし、本書には記述がなかったが、お互いに過度な負い目を持ってしまうのではないだろうかと僕は思う。
というのも、相手に助けを頼むことに、申し訳なさや、その頼みを引き受けるか断るかで悩ませてしまうことにも”悪いな”という思いになる。
助けを頼まれた側も断れば、相手から何を思われるのだろうかと余計な詮索をしたり、だからといって引き受ければ、自分の負担になるかもしれない。
お互いにそれが暗に分かっているから、立場が逆転してもお互いの気持ちが分かりすぎており、助けを頼みづらいし、頼まれづらいではないだろうか。
これに対して、タンザニア人たちは「無理なく」、「ついで」に助け合うことをしているという。
先述したようにそもそも互いにことをよく知っていない(敢えて知ろうとしない)。また、現在の境遇はどうなのか、どのような人物であるのかをきちんと把握しているわけではない。
だからこそ、相手のことが分からないから過度な期待を持たないし、断られたとしても、それにはそれなりの事情があるのだろう思うだけで、頼みを引き受けてくれないことに憤りを感じたりもしなのだという。
そこにはあくまでも、それぞれが個人事業主であり、稼ぐこと、商売をすることが生きることのベースとなっているからである。プライベートと仕事の境界線があいまいで、すべてが商売に繋がるし、繋げようという姿勢であるということをお互いに了解している。そのため、頼みを引き受けるかどうかを判断しているのは、その人の人格とか内面性ではなく、商機になるのか、ここで貸しをつくることで、どこかのタイミングで商売に繋がるのではないかという、実利的な側面が強い。
つまり、「ついで」に引き受けた頼みのお礼は、いつか何かの形でどこかからか偶然返ってくるかもという淡い期待と、頼んできた者に期待することなく「ついで」に引き受けた自分自身が帳尻合わせをしていくのである。
だから、本書では互いによく助けている場面が頻出しているが、タンザニア人が優しいからとか、世話好きだからというわけではなく、もっとドライで打算的な理由から助けているのだろう。
異国に住まうタンザニア人という同朋意識はあるだろうが、タンザニア人の気質よりも、社会規範よりも本人の思惑や意志が判断を左右している。
と、僕は解釈した。
なぜ解釈したと表現したかというと、「ついで」や「無理のない」助け合いの理由が本書の所々で表現の幅があったり、矛盾するような箇所があったからである。
僕の解釈では、香港のタンザニア人たちはの行動や選択を左右するのは”商売人”であることがベースにあると考えている。
丸ごと信用することができない他者と共に在る社会では、稼げるかどうかは自分の腕にかかっている。信用できないからこそ、期待しないからこそ彼ら/彼女らは個人主義的で、判断基準は自分自身である。
だから、本書ではタンザニア人たちの助け合いは「ついで」や「無理のない」ものと表現しているが、そのような軽いノリのようなものではなく「打算的」で「思惑」のある助け合いに近いのではないかと思った。
本書を読んだ方々が、「ついで」に助け合う理由をどのように受け取ったのだろうかが知りたい。
最後に
書末のほうにこのように書かれている
本書を読んで思うことは、僕(たち)は他者や社会に期待しすぎてはないだろうか。期待に応えてくれると無意識に思い込み、期待した応答がなければ気落ちしたり、相手をなじったりしていないだろうか。
他人がつけた評価や数値に盲目的に信じてはいないだろうか。自分の思考、や感性や好みを捨てて、他者や社会の判断に委ねてしまっていないだろうか。
他者や暮らす社会を信じられることはもちろん素敵なことだ。共有してある価値観を築いていくことができる。しかしそのような社会や人間関係は、社会や他者の期待に応えられない人を排除してしまう恐れもあると思う。期待に応えると言うことは、わたしとあなたは同じように考えて、同じような好みで、同じようなことができるという前提に立っているからだ。だから、わたしとは異なる人、社会的にマイノリティな人々は期待に応えることが難しく、排除されてしまうかもしれない。
香港のタンザニア人たちのようにグレーな危うい生き方をしている人は少ないだろうけど、僕たちにだって人には言えない(言いたくない)様々な事情を抱えているはずである。
にもかかわらず、社会や他者の期待を優先して生きることは、他者や社会に合わせて自分を殺してしまい、自分自身で判断することを放棄する一方で、他者や社会に過剰な期待を寄せて責任を転嫁をすることにも繋がるのではなかろうか。
なんでも自己責任で判断して、自分のケツは自分で拭けというわけではない。
人はそれぞれ一個人である。
他者や社会へ過剰に期待するよりも、期待に応えようとするよりも、自分自身に期待して、個々の気持ちや好み、思考、感性を持って物事を判断することを忘れないほうがいいと思った。
何よりも僕自身への戒めである。
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