赤い道 #キナリ杯

 赤土の道を乾いた熱い風が吹いてくる。
ゆるやかなカーブがだらだらと続く道。
雨季に刻まれた車の轍はならされることもなく複雑な模様を描いてトラックの進路を弄ぶ。

前方に広がるのは僕を、僕の知っている世界へと連れて行く道。
後ろに続くのは僕が逃れてきた場所に向かう道。

巻き上がる赤い砂ぼこりに白い車体を赤く染めながら、トラックは荷台に僕だけを乗せ走り続ける。車輪が回るたび僕はあの場所から遠ざかっていく。

顔を叩く熱風が僕の呼吸を奪い目に涙をにじませる。
握りしめた運転台のフレームは熱くて手を焼く。
でも、体中で感じるこの熱さだけが僕を僕の世界に繋ぎとめてくれるような気がして、僕は熱い風に背を向けることも、荷台の陰に座り込むことも出来ない。

誰もあそこから僕を追って来はしないのに。
それでも、僕は身動き一つすることが出来ない。

照りつける太陽の位置は丁度昼過ぎ。
このまま、この熱さに耐え続ければ星が出るころには帰りつけるだろうか僕の世界に。
僕の家に。

この道の先で待っているはずの僕の世界。
父さんが積んだブロック壁とトタン屋根の家。
夜になったら、父さんがこっそり電柱から引っ張った電気をつける。
家の窓から外に漏れる薄暗い灯りの下で、隣の兄ちゃんと一緒に僕はバケツの底を叩く。辺りは僕らのバケツドラムに合わせた手拍子、地面を踏み鳴らす音、笑い後でいっぱいになる。そして母さんたちに「寝なさい」って怒られて、寝床に潜り込む。
全部、鮮やかにくっきり思いだせる。
トラックが走れば走るほど僕の世界は近くなる。進めば進むほどあの場所が遠くなる。

あの人を置いて、あの全てを置いて僕はこの道を行っていいのだろうか。

きっかけはあの夢、空に昇っていく赤い蛇の夢。
最初の夢はこの前の雨季が始まる頃。一匹の蛇が赤土のように赤い体をくねらせ空を昇っていく夢だった。ちょっと怖かった。蛇の夢は魔術を呼ぶって大人は皆言ってたから。だから誰にも言わなかった。忘れてしまいたかった。でも忘れられなかった。夢の蛇は何度も何度も幾晩も幾晩も僕のところに来たから。見る度に高く高くと空を登っていく蛇。その赤い体はまるで空に溶け込んでいくかのよう少しずつ透明になっていった。そして、とうとう夢の中で蛇の体が完全に空と一つになった日、あの人が僕の家の前に立ったんだ。

あれは、太陽が家の前のバナナの木の一番上から右に45度ずれて1日で1番暑い時間が終わるころだった。乾季の乾いた風が少し涼しくなって、扉の無い戸口から家の中に入り込んでいたっけ。学校から帰った僕は、母さんの手伝いでサトウキビ畑に行く準備をしてた。末の弟が僕の背負い籠に入りたがらなくて手を焼いていた時、母さんが「はっ」と大きく息を飲んだのを覚えている。母さんは息をのんだまま戸口をじっと見ていた。つられて目を向けた戸口に彼が立っていた。

背に浴びた午後の光が彼の姿を影のように浮かび上がらせていた。身体にぶら下げた毛皮や木の実を風が微かに揺らし、薬草や土、獣の香りがした。
僕はぼんやりと立ち上がって、弟を母さんに渡した。だって僕は行かなきゃならない、彼は僕を迎えに来たんだから。

やっぱりあの夢は「兆し」だったんだ。兆しからは逃れられない。
学校ヘ行って、畑に行って、皆と遊んでいつかは本物のドラムが叩きたいなって隣の兄ちゃんと話してた。ずっと続くはずだったこの日常が終わるなん思いたくなかったけど僕は彼についていかなきゃならない。
弟を抱きしめて僕を見送った母さん、彼と僕に道を空ける村の皆。僕は振り返らなかった。「嫌だ、行きたくない」って言ってしまうのがわかっていたから。

「兆しの夢」は人によって違う、今まで彼らに迎えられた人たちがどんな夢を見たか僕は知らない。そんな事を知ろうとするのはきっと白い人たちだけだ。「兆しの夢」は違う世界への入り口。その夢を見た者は誰であろうと、何をしていようと定めから逃げることはできない。彼らが迎えが来たら一緒に行かなくてはならない。もし行かなかったら災いが起こる。だから、皆「兆しの夢」を見たくないし話しもしない。だって知ってしまったら知らない振りができないから。

僕の村を出た後トラックに乗って、それからまた歩いて星が出る頃にたどり着いたのは、藁を混ぜた泥壁とバナナの葉で葺いた屋根の小屋だった。薬草と土と獣の香り、彼と同じ匂いのする仕切りのない一間だけの家。奥には木の根でできた腰かけが二つ。白く乾いた小さなのと、褐色でつやつやとした大きなの。白い木の根を見た時僕のだと思った。吸い寄せられるように白い木の根に近づいた僕を満足そうに笑って彼は頭をなでてくれた。僕と同じ黒い肌。よく見たら眼尻に皺が幾本も刻まれているけど思ったよりずっと若い父さんくらいだ。「よく来た弟子よ」低く響く声で彼が言った時、僕は自然に彼の足元に跪き彼は僕の師匠に僕は彼の弟子になった。

「弟子よ」師匠は言った。「我らの力は地の力、源は大地、木の根は我らと源を繋ぐもの。根と心を通わせなさい。その根がお前と大地を繋いでくれる。お前がその根と繋がる限り、お前は大地にも自分にも忠実であれるだろう、さあ座るのだ」促されるままゆっくりと白い木の根に腰をおろすと心に風が吹いたバナナ葉を揺らして渡ってくる風だ。体を心地良さが覆う。夜のうちに冷えた朝の地面、甘い土の匂い、1つ1つが僕の心に直接触れてくる。空気に優しく包まれて宙に浮かぶような気持ちよさと心もとなさを感じた。どれくらいの時間だったかな、ふと心に潜り込む歪な何かに気が付いた時、心地よさは泡のように消えた。バナナの葉を揺らす優しい風は、カラカラに乾いたサトウキビの間を抜ける熱く焼け付く熱風に変わり、ひんやりと気持ちの良かった地面はどんなに掘っても水の出ない干上がった川底になっていた。激しく照り付ける太陽に飢え渇く草木が、虫が、動物が苦しむ様が、思いが僕を取り巻き渦のように飲み込んだ。緑を襲う虫の大群は僕をも食らうかのように飛び回った。木々が切り倒されていく、嫌な匂いのする水が土に撒かれ大地が悲鳴と怒りのうなりをあげた。まるで渦に巻き込まれているかのようだった。見ているのか感じているのかわからない。色んなものが僕に入り込み通り過ぎまるで竜巻のようだった。その中で僕が僕であることすら小さなかけらほどの大きさもなく、僕自身の存在が僕の中から消え去りそうになった時、「弟子よ」低く響く声が僕を渦の中から引き戻した。
いつの間にか閉じていた瞳を開けると、師匠の穏やかで深い眼差しが僕の瞳をのぞき込んでいた。僕をこちらへ引き戻したあの声が「それで良い」とささやき、大きな乾いた手が僕の肩を包んでくれた。温かくて乾いた手は夜の気温で冷えてきた肌には心地よく、伝わる何かがこの人を信じていいのだと教えてくれた。

翌朝から、僕の日課は、師匠について薬草を学ぶことと、僕の木の根と心を通わすことになった。あんな思い味わうのは怖いかったけどこれは僕の定めだから。朝起きて、薬草を集めて、昼が過ぎると木の根に身を預けて自分を失いそうになる寸前に師匠に引き戻されてこの繰り返し。「木の根を通じて大地と話して大地の力を得る、大地の想いを受けとめる、大地の力と競う必要はないのだ」と師匠が繰り返した言葉に合わせて、木の根に身を預けるのが少しずつ苦痛ではなくなった頃、僕は別の恐怖に気が付いてしまった。
僕の木の根が僕に伝えてくれるものに溺れず、受けとめられるようになるにつれ、それまで僕を作っていたものが僕の心から消えていくような気がしたんだ。母さん、父さん、弟たちや近所の皆、学校であったことや、母さんと畑に行ったこと、ずっと続くはずで、ここに来ることで途切れた僕の日常は途切れたけど、僕の中には変わらずずっとあると思ってた。そこに僕は居ないけど、みんなが生きている日常を僕が無くさなければ、僕が心の中に持っていればみんなの中にも僕は残ると思っていた。だって僕は全部置いてきたけど忘れるつもりはなかったから。でも、気が付いたら僕の心は別のもので埋め尽くされて僕が覚えていたかものが少しずつ消えていく。
ここにいる僕が望んだ僕じゃない。僕の定めだったからここに来たんだ。でも今までを忘れたかったわけじゃない。僕がみんなを全てを忘れたら母さんたちの中にいる僕も消えてしまわないんだろうか。みんなの中から僕が消えてしまったら、そう思うと怖くてたまらなかった。そんな思いが頭を占めるようになった頃またあの夢が始まった。

夢の中で蛇の体は赤くはなかった。ただ透き通った体をくねらせながら空を昇っていく。夢を見るたびに蛇は空へ空へと昇ってゆきその度に蛇の体は赤く染まった。夢の蛇が赤くなるにつれ僕はもっとここにいることが怖くなった。僕の木の根に触れることが怖くなった。僕が置いてきてしまった日々を永遠に失くすことが怖くなった。師匠がくれる深い眼差しより母さんの快活な眼差しが恋しくなった。そして、ついに夢の中で蛇の体が真っ赤になった朝、師匠は何も言わずに僕をトラックに乗せた。

僕は家への道を進んでいる。
僕の世界を僕の日常を続けるために。少しでも動けば定めが僕を追いかけてまたあの場所に引きずっていく気がする。乾いた赤い道。もうずいぶん前この赤い道を僕は師匠に連れられて今とは逆に向かって行った。今度は家に向かって進んでる。家に着く頃にはきっと父さんが帰ってきて、電柱から引っ張った電気が部屋を照らす。夕食の後、僕は隣の兄ちゃんとドラムを叩いて、母さん達に叱られるまでみんなが踊るだろう。僕はそこに帰りたい。みんなが僕を忘れること僕がみんなを忘れることが堪らなく怖い。僕は家に帰りたい。僕は帰って良いんだ、だって蛇は赤くなって僕は定めはなくなったんだから。

それなのに今、僕の心にあの家に一人でいる師匠の姿が浮かんでくる。
たった1人、大地と人を繋ぐ定めを負いながら生きる師匠を僕はあそこに残してきてしまった。帰りたくてこの定めが恐ろしくて逃れられることを喜んでしまった。

トラックのタイヤは回り、刻一刻と家へと近づく。一呼吸するたびに師匠から定めから僕は離れてゆく。吹き付ける乾いた風が目に刺さって涙がにじむ、涙を払いたくてきつく目を閉じる。
とじた瞼の裏に光があった。はっと開いた僕の目の前に空に浮かぶ2匹の蛇がいた。「まさか」思わず目をこすったけれど蛇は消えない。1匹は赤く、1匹は空に溶けそうなほど透き通っている。互いに絡まりあう2匹の蛇が4つの眼で僕を見つめる。そしてそのままゆっくりと空を昇っていく。
僕は、咄嗟に怒鳴った「おじさん止めて」荷台から飛び降りた僕にトラックのおじさんが何か叫んだけど答えずに走り出した今来た道を。

そうだったんだ。僕はどちらかを選ばなくて良かった。
僕の今までを捨てる必要も定めを捨てる必要もなかったんだ。どちらも同じところで繋がっている。僕は、僕らは大地の上で生きていて、生かされていてそれは師匠も、僕も、母さんたちも、植物も動物も皆同じなんだ。僕は定めを得たけど、それは、みんなと別の世界に住むことじゃない。僕に大地と繋がる力があるのなら、皆に伝えればいいだけの事だった。僕にはまだわからないことが多いけど、僕らが大地と一緒に生きていることも、大地が僕らを好きなことも知っている。電柱から引っ張った電気も好き、夜の暗闇の中で、手拍子だけで歌うのが楽しいのも知っている。暑い日、街のレストランのドアから流れる冷たいエアコンの風、バナナの葉を揺らして吹く畑の風の涼しさ。カラッカラに乾燥した日照りの畑。全て皆この大地で起こること。大地と共にあること。僕は、大地の心を皆に伝えよう。皆の心を大地に伝えよう。僕は自分が望むことのために定めを選ぼう。

僕のために戻ってきてくれたトラックに乗って、僕は来た道を引き返した。師匠が僕をトラックに乗せた場所で、トラックのおじさんに別れを告げて、僕は走った。日が暮れるころ、僕は着いた。師匠の家に、僕の家に、魔術師の弟子として。
                        


いいなと思ったら応援しよう!