第15話「アネモネ」
コンビニで購入した新聞に目を通す。隅々まで目を通したけど、彼女の起こした事件は載っていなかった。テレビでニュースを流す事もない。インターネットで検索しても該当しない。
あの日の夜、僕は女を抱いていた。だけど、その裏では一人の命が終わりを迎えた。
もしも僕が真夜中に帰って来たら、彼女は行動を起こさなかったのか。それは一生わからないんだろう。ただただ感謝されて、彼女は僕の前から消えた。最後に空を見上げている彼女の顔だけは目に焼きついている。
もう愚痴も聞いてあげれない。顔の見えない旦那の怒鳴り声もある意味聞いてあげれない。
暴力から耐えきれず、一木さんは寝ている旦那を滅多刺しにした。それが朝方の事、僕が昼過ぎに帰った時、すでに旦那は息絶えていたという。彼女が訪問して来たのも、僕と別れの挨拶を兼ねていたのか。
でも、彼女は感謝の言葉を伝えて僕の前から立ち去った。
「お前の隣で殺人を起こしてたんだ」と友人はサラッと言う。
友人にしたら所詮は他人事で、さほど興味は湧かないだろう。その人妻と肉体関係だったと言えば違った反応をしたかもしれない。そんな事言うつもりはなかったけど、一人の女性が暴力に耐えきれなくなり、人を殺すという事実があることを知って欲しかった。
「そんな事より、お前に紹介したい人が居るんだけど」
「お前の紹介する人って、ロクな人間じゃないよな。そんなイメージがあるよ」と僕はそう言って氷の入ったグラスを傾けた。
カランコロンと氷の鳴る音を聞いた時、世界の終わりみたいに景色が傾くみたいだった。ウイルスの脅威は決して世界を変えたわけでもなく、人間の愚かさに気付かせたとカルマは言っていた。
人を殺す事が人間として愚かな行為なのか。それは永遠に落ち続ける砂時計だけが知っている。
「なぁ、今度の金曜日にその人と会うよ」
「悪いなぁ、伝えとくよ」と友人は目の瞳を変えて言った。
今夜も友人と飲む酒は美味しくなかった。こいつと飲んでもしけたマッチを擦るようなモノ。
この日、友人にしけたマッチなんて言わなかったけど、冷たい鉄格子の中で孤独なサナギになった一木さんは、擦ったマッチで温もりを感じて欲しいと思うのだった。
真夜中の月と昼間の月が弧を描く時、世界を半周した事になる。僕は一人の女性を心から救える事はできなかった。感謝されても戸惑いばかりで、後悔だけが心の隅っこでもがき苦しむのだった。
翌週、隣の部屋は新たな入居者が決まった。顔の見えない旦那が殺された部屋。暴力を受けていた人妻の部屋。真実を知っているのはごく僅かだが、一人の女性が懸命に生きようとしていたのだ。
休日の夜、隣の部屋に入居した人が挨拶をしてきた。見た目は三十代ほどの女性。今度は一人暮らしの女性。手土産を渡された時、その女性は眩しいくらい愛くるしい笑顔を振り撒いた。
そう言えば、一木さんが挨拶に来た時も笑顔を見せてくれたよな。
隣の住人が暴力で悩む事もなければ、早朝から怒鳴り声が聞こえることもない。僕の部屋を訪れる事もない。二度と僕の元へ訪ねて愚痴なんか溢さない。そんな日常生活が過ぎた頃、僕の部屋のドアがノックされた。
カップラーメンにお湯を注いだタイミングだったので、僕は思わずタイミングが悪いなぁと口にするのだった。規則正しくノックする音。この音は一木さんじゃない。まだ僕の中で彼女が叩く音は覚えていた。
誰が訪ねて来る?
僕はお湯を注いだカップラーメンを名残惜しく見てから、玄関の方へ歩くのだった。
第16話につづく