名前くらい、ちゃんと付けようや。

京都駅から市バスに乗って下宿に帰る途中、ふとある看板が目に入った。



「佐々木ダンス教授所」



これまで幾度となく往復した東山通りで、今まで気にもしなかったこの看板が今日はどうしても気になった。場所はちょうど東山五条のあたり。なぜかはわからないが、突然この看板が「通り過ぎる石ころのような風景」ではなく「意味を持った登場物」として僕の家路の一部分を占め始めた。

風景として主張してくるものだから当然その文字にも意識が傾く。



「佐々木ダンス教授所」



なんじゃこの言葉のチョイスは。中身が全くわからん。とりあえずは「佐々木さんがやっているであろう」、「踊り(←ここ重要)を教えてくれる場所」、であることはわかる。しかしその先がわからない。どんな踊りを教えているのか、がわからない。順当に読んでいけばまず最初に「ダンスを教えているのかな」と考えるはずである。僕も、「ダンス」と表記しているのだからおそらく西洋の踊りであろう、と最初は考えた。

しかし待ってほしい。西洋の踊りを教えるのなら「ダンス教授所」とかじゃなくて「ダンスクラブ」「ダンスレッスン」とか横文字で統一するんじゃないか。それかせめて「ダンス教室」みたいにするんじゃないか。西洋の踊りを教えるのなら、「ダンス教授所」なんていう不似合いなお堅い言葉遣いをあえて選ぶことはないんじゃないか。うーーん。

すると次に考えられるのは日本舞踊を教えるのではないか、ということである。これなら「教授所」なんていうお堅い言葉に合うだろうし、東山の空気にも合う。しかし、である。ちょっと待ってほしい。京都で日本舞踊を教えている人が、自分が教えている踊りに対して「ダンス」なんていう言葉を選ぶか?京都の日本舞踊の先生に「ダンス教えてるんですね!」なんて言ってみろ。ぶぶ漬けで喉掻っ切られて骸を鴨川の河原に晒されるぞ。これだから京都は怖いんだ。

となると日本舞踊を教えている線も怪しい。残るのはこれが「パチモンの踊り屋さん」である可能性である。西洋/日本のどちらを教えるでもなく、ただただ珍妙で、妖麗で、うすら怖い、スモークにまみれた謎の動きを提供しているのではないか。西洋舞踊なのか日本舞踊なのかの区別を超えた「ネオ踊り」であることを暗に伝えるためにあえて



「佐々木ダンス教授所」



という言葉遣いにしているのではないか。とすると、看板を車窓から一瞥しただけでそれを「意味を持った登場物」と感じた僕は、その時点で佐々木さんの「ネオ踊り」の魔術に既にかけられていたのではないか。なんということだ。踊りを全く見せることなく、看板を見ただけでその踊りの妖術にかけるとは。恐るべし「ネオ踊り」、恐るべし「佐々木さん」、恐るべし「佐々木ダンス教授所」。

そうこうしている内に看板をとっくに通り過ぎ、気がついたら百万遍だった。それは恐ろしい家路だった

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