「分人」の概念
最近、大学の授業で面白い話があったので、書いておく。
テーマにもあった通り、「本当の自分とは何か?」について。
僕らは毎日、いろんな場所に行って、いろんな人と話をする。家族、学校の友達、バイト先の店長、サークルの友達、あと好きな人とか。
でも、その時、相手ごとに接し方は違っているはずだ。とある人の前では「マジメな人」になったり、とある人達の前では「おチャラケキャラ」になったり。そこに「完全に同じ自分」はいない。自分は一人しかいないはずなのに。
じゃあ、「本当の自分」はどこにいるんだろう?
いや、そもそも「本当の自分」って存在しているのか?その場に応じて出てきた自分は「ニセモノ」なのか?
ここで、「分人」の概念が出てくる。僕たち人間には様々な顔、つまり「分人」が存在している。そして、それは全部「本物」。僕たちはそれを様々な場面ごとに切り替えているのだ、と。
ここで「3つの疑問」が生じる。
一つ目が、「人によって対応を変えることはよいことなのか?」
二つ目が、「嫌いな分人とどう付き合うか」。
三つ目に、「なりたい分人を取り入れることは可能か」だ。
一つ目の「人によって対応を変えることは良いことなのか?」という疑問。これについては、「相手に対して誠実であるかどうか」によると思う。
相手を尊重するということを一番にしたうえで対応が自然と変わるのであれば、それは相手に向き合った結果なのではないだろうか。そこに非難される所以はどこにもない。
二つ目の「嫌いな分人とはどのように付き合うべきか」という疑問。例を挙げると、「嫌いな分人がでる環境を避けること」である。いじめられっ子は学校内ではいつまでも「いじめられっ子」の分人を背負ったまま学校の時間を過ごすことになる。だったら転校してその分人となる時間を変えた方がよい。
三つ目の疑問、これについては、完全に取り入れるのは時間がかかるが可能だと思う。なりたいと思った人格に近い人達と一緒に過ごせば、考え方や感じ方に、その影響は出てくるだろう。
今までおとなしかった人が大学に行って変わったというのはよくある話?ではなかろうか?