誕生日という名のエッセイ
「いつか散る花なんだから 今を咲き誇れ」
〜大森麦秋「花」より〜
ということで47歳になりました。
ありがとうございます。
おっと
アリーナ席の方からも大きな拍手をいただきました。
本当にありがとうございます。
皆さまのおかげでなんとか生きております。
さてさて、今日は誕生日。
なんとなくダラダラと文章を書いてみました。
正確な年齢をGoogle で確認するくらい年齢に無頓着になっていた。
今年で48になるのだと思っていたら、今日で47歳になるらしい。
1年得した気分になった。
なんとなく2倍してみたら94歳。
94歳の自分を想像してみる。
歯は何本残っているのだろうか?
髪の毛は残ってる?
ちゃんと歩けてる?
記憶ある?
ていうか生きてる?
さて、いきなり暗い話になってしまうが、
40代に入ってから急速に「死」について考えるようになった。
「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している」
と村上春樹はノルウェイの森で書いた。
高校生のときはいまいちよくわからなかったその言葉が
今は確実な手応えを持って腹にストンと落ちてきている。
30代までは死というものを意識していなかったと思う。
いや、意識的に無意識の奥に追いやって生きてきたのかもしれない。
要するに考えたくなかったのだ。
ある日、とつぜん笑顔の死神が現れ、
「いやあ、世の中には死ってものがありましてね」と
目の前にドスンと置かれた気がした。
結構重かったんだこれが。
鮮明に記憶に残っているのは2年前。
腰の手術をした時のこと。
全身麻酔をして目が覚めるとベッドの上だった。
コロナ真っ只中だったのでマスクをされた上に、
さらに呼吸用のマスクをかぶせられていた。
Wマスクだ(W浅野的な)
「マスクは外さないでくださいね」
という看護師さんの声が
おぼろげな意識の中、遠くに聞こえる。
腰の手術をしたばかりなので
動けるのか動けないのかもわからない。
ちょっと右に体を傾けようとするがうまく動かない。
不安な気持ちが加速するにつれて息苦しさが追従してくる。
Wマスクは酸素摂取量を著しく低下させる。
超絶不安な気持ちになってきた。
過呼吸になりそうな予感。
「このまま死んだらヤバい」
看護師さんの言葉を無視し、
なんとか動く右手でマスクを剥ぎ取り、
酸素を体内に取り入れた。
酸素って、うまい。
その後も不安な気持ちは夜まで続いた。
生きるとか死ぬとか、そんなことについてひたすら考えた。
考えるといってもたいしたことではない。
今の自分はなりたかった自分になれているのか
あと数年の命だとしたら何をするか
死後の世界って本当にあるのか
天井を見つめながらそんな時間を過ごす。
そういえばSMAPが夜空ノムコウで歌っていた。
「あのころの未来にぼくらは立っているのかな」
と。
あのころの未来にぼくは立てているのだろうか。
考えすぎたら膀胱が活発になるらしい。
深夜に5回も看護師さんを呼んで尿瓶を処理してもらった。
強烈な腰の痛みは、
「この痛みが一生続くとしたらどうしよう」
という不安をあおり
Wマスクは
「このまま死んだらどうなるんだ」
という不安をあおった。
あの日を境になにかのスイッチが切り替わった気がする。
死が僕の人生の一部として存在していることを
やっと認識したのかもしれない。
かの大森麦秋は
「いつか散る花なんだから 今を咲き誇れ」
と歌った。
Amで始まる暗い曲。
僕はこの曲が昔から大嫌いだった。
嫌いなのに、その陳腐な歌詞だけが僕に突き刺さって離れなかった。
94歳の自分は47歳の自分に何て言うだろうか。
おそらくこう言うだろう。
「やりたいように生きなさい」
と。
いつか散る花なんだから、今を咲き誇ろう。
最後になるが、
大森麦秋なんて人はこの世に存在しない。