〜FAM〜
93歳とは思えないほど愉快におしゃべりをするその人は今から93年前の昭和6年、京都の太秦という地で生まれました。
7人兄弟の三男坊。T田Yさんの半生を振り返ります。
※T田家の相関図はこんな感じ
小さい頃のYさんはとても活発な少年で、かくれんぼや鬼ごっこ、めんこやこまなどとにかく外で遊ぶのが大好きな元気な男の子でした。
兄弟の中で1番頭が良かったと口にするYさんですが、小さい頃は突出して憧れるものや将来の夢などはなかったと言っていました。ただ、京都の田舎を飛び出して新聞記者になった父の背中を見て『自分もいつかは新聞記者になるんだろうな...』とぼんやりとしたイメージがあったそうです。
毎日友達と外で遊び平和に暮らしていたYさんですが、1939年には第二次世界大戦を経験します。京都は空襲による被害はそれほどなかったものの、今までのように無闇に外へ出て遊んだりすることができなくなり当たり前の日常が無くなってしまいました。
1945年、Yさんが中学2年生の頃に終戦を迎え徐々に元の生活へと戻っていきます。
高校は京都の名門、西京高校に進学しラグビーに打ち込みます。Yさんは昔からよく外で遊んでいたおかげか足が速く、人とぶつかるのが大好きで負けん気も強かったのでラグビーは持ってこいのスポーツでした。
Yさんの得意なポジションは前線の「ロック」というポジションで下の図の4番5番に当たります。
ラグビーのことは詳しくわからないのですが、ととにかく攻めて攻めて攻めまくるポジションのうようです。温厚に見えるYさんにもそんな一面があったとは...Yさんがラグビーをプレイしている姿を一度見てみたかったです。
ラグビーに熱中した高校時代を経て、Yさんは明治大学に進学します。
大学ではラグビーは続けず、入学してすぐの春には学費を稼ぐため父親の知り合いの伝手から貸金業でアルバイトを始めます。当時戦後の急成長でどんどん物価が上がっていて、それについていけない人たちにお金を貸して金利で儲けるという、言わば昭和のウシジマくんです。
父親に勧められたと言っていましたが、なぜ自分の息子に貸金業を進めたのか、その謎は未だ解明されていません。
ウシジマ君と言えば少々怖い印象があるかもしれませんが、Yさんは実際に取り立てなどはしていなかったみたいです。記録をとったり事務作業が主な仕事で、約1年間金貸業でアルバイトをした後大学2年時に学費が払えなくなり大学を中退してしまいます。
中退後は金貸業は辞め遊び人として夜の街を徘徊する日々が続きます。賭け事、お酒、ビリヤードなど2年間ぐらいを夜遊びにふけり、この期間将来についての焦りや不安をすごく感じていたそうです。
2年間という長く暗い夜が明け、父親の助手として新聞記者としての人生をスタートします。
助手といっても最初はパシリのようなもので、タバコを買いに行かされたり荷物持ちをしたりというのが仕事だったみたいです。徐々に慣れてくると自分で取材したり原稿を書いたりということもするようになってきて、自分で記事を書けるようになってきたある時某新聞社にスカウトされ入社します。
サツ周りの担当になったYさんは京都の五条署という部署で、日々街に繰り出しては街の嬉しいニュースから殺人事件まで沢山のことを街の人々に知らせました。時には身の危険をも顧みず、新聞記者として真実を追い求めて突っ走っていきました。
ひとつ、Yさんに聞いて見ました。
Yさんは真剣な眼差しで「赤軍事件」と答えてくれました。
よど号ハイジャック事件、山岳ベース事件、あさま山荘事件、テルアビブ・ロッド空港事件、そう遠くない昔日本を恐怖に陥れた赤軍事件。その事件を追っていた頃が1番記憶に残っていると語ってくれました。
Yさんの書いた記事を見て嬉しい気持ちになったり、危険を察知したり、街の人々の生活の一部になっていたと考えるとすごく大義があるし、またそれだけ責任も重大だったんだろうなと思います。
Yさんの発する言葉の一つ一つからどれだけ新聞記者という仕事にどれだけ真摯に向き合ってこられたのかが感じられて、身が引き締まる思いでした。
父親の荷物持ちからスタートしたこの仕事ですが、記事の書き方や内容構成、仕事に向き合う姿勢などさまざまな部分で功績が認められて徐々に新聞記者としてのキャリアをステップアップしていきました。
そして職場で運命の相手「Y子さん」と出会い、結婚します。
職場での出会いというのは、Y子さんは当時ではすごく珍しい婦人記者で、さらにサツ回りを担当していて現場で度々顔を合わせるライバル記者でした。
最初は「こいつには負けん」とライバル心むき出しだったYさんですが、話をするうちに仲良くなり交際がスタート。ライバル記者として相手のことを考えているうちにお互いのことを意識し始めるようになったんだと思います。
そして2人は結婚し、昭和39年に第1子となる【Aくん】を出産します。
出産は無事成功し元気な男の子(Aくん)が産まれました。しかし奥様のY子さんは妊産婦死亡で出産と同時に命を落としてしまいます。
とても気持ちがわかるだなんて言えませんが、新しい命が誕生する最も幸せな瞬間に最愛の人を亡くしてしまう辛さは、想像するだけでもすごく胸が苦しくなります。
Yさん自身も初めての子供で不安も大きかったはずですし、自分の愛する人を亡くした辛さは永遠に消えることはないと思いますが、そんな中でもAくんの父親として自分がやるべきことを一生懸命やってきたYさん。家族や知人の力を借りながら、新聞記者としての自分と父親としての自分のどちらも大切に守ってきました。
そして奥様を亡くしてから約3年の月日が経ち、大学関連の記事を書くための取材で「Mさん」という女性に出会います。Mさんは京都府立大学の助手をしていて、なんと西京高校の1学年下の後輩でバレー部だったそうです。
Yさんが所属していたラグビー部はよく練習しているバレー部の方にわざとボールを蹴ったり投げたりし、それをとりに行って女子に絡むというのが当時流行っていました。僕も最近まで高校生だったのでその時の心情がよくわかり、青春の1ページとして脳裏に刻まれています。
なので当時2人に面識はなかったものの、そこには確かな接点がありました。高校時代に交じり合うことのなかった2人が大人になり互いの仕事を通じて再び出会い何度か取材を重ねたのち仲良くなり交際をスタートします。
Mさんと交際している時Yさんは自分に子供がいることを伝えておらず、ある日Mさんを家に招待した時にゆりかごの上でA君が寝ていたのを見て、Mさんは本当にびっくりしたみたいです。
でもそれがきっかけで「この人は私が支えないといけない」と腹を決めYさんと結婚することを選んだそうです。
とはいえ、"子持ち新聞記者"というのは当時の世間体からすると良い印象ではなく、みんなから大反対されたみたいです。
Mさんは両親を早くに亡くしたこともありお姉さんたちが親代わりに育ててくれたそうなのですが、そんなお姉さんたちもこの結婚には大反対でずっと結婚を許してくれなかったそうです。しかし最後はMさんの強い意志に説得され結婚を許してくれたそうです。
晴れて2人は結婚し、第2子Mちゃんも家族に迎え4人で幸せに暮らしました。
チャンチャン!
お話を聞いているとYさんの好みの女性は、意志が強くて賢い方なんだなと言うことがよく分かりました。
Y子さんは大学でも非常に優秀で頭も良く、婦人記者として仕事をするということを自分で決め、当時では珍しくあまり認められていない中強い意志をもって実行しました。
Mさんには自分の意思を貫く強さがあり、京都府立大学で助手を務め、助手ではありましたが知的で聡明な女性でした。
意志が強くて賢いと言うのがひとつのキーワードで、娘のMちゃんにそっくりだなぁと思いながら話を聞いていました。笑
1時間や2時間ちょっとでYさんの全てを知ることはできなくて、家族にしか分からない過去の問題やその人の一面があるのは当たり前です。ですがこうして年月を重ねた今だからこそ理解できる部分や知らなかった意外な一面もあると思います。どんな些細なことだったとしてもそれを知るきっかけになったなら今日のこの時間は意味のある時間だったんじゃないかなと思います。
誰1人としてコピー人間はいなくて、自分だけのオリジナルの人生があります。外で遊ぶのが大好きだったこと、ラグビーをしていたこと、貸金業に携わったこと、遊び人をしていたこと、新聞記者になったこと、奥さんと出会あったこと、家族ができたこと、振り返れば全てに意味があって今に繋がっているように感じます。
「あの時!あの決断が良かった!」っていうのは全部終わってからわかることで、不安や迷いを抱えながら目の前のことに一生懸命、真摯に向き合ってきた対価が今の日常です。それを幸せだと感じられたなら、それはとても素晴らしいことなんだと思います。
今日の締め括りに、Yさんから僕へ
「人生のアドバイス」を頂きました。
Yさんからもらった言葉は二つです。
一つ、
好きな人と結婚すること。
いつかしてみたいですね。
二つ、
正義を貫き、真っ当に生きること。
邪を悪とし、自分の信念に誠実であれ。長きにわたり新聞記者として真実を追い求めてきた方の言葉の重みをひしひしと感じました。
僕とYさんでは生きてきた時代や出会ってきた人、見てきた景色やその感じ方まで何から何まで違います。全部が違うのに、Yさんがくれる言葉に勇気をもらったり背中を押してもらえるってすごいことだなと思います。
みんな違ってみんな良いではないですがささいな一言でも、命を燃やし生き抜いてきた人たちの言葉には深みがあり、まだ青い僕にとっては日々を生き抜く武器になります。
お父さんやお母さん、おじいちゃんおばあちゃん、兄弟や従兄弟、いろんなジャンルの面白い人生はすぐ近くにあるので、少し時間を作って話を聞いてみたら面白いんじゃないかなと思います。
いつまでも当たり前にそこにあると思っているものほど見落としがちになり、無くして気付いたときにはもう遅いなんてことがよくある中、1番近くにいる家族のことを自分はどれだけ知れているんだろう。今回めぐさんに機会を頂かなかったらきっとまた気付かずにいたと思います。
いくら家族といえども突き詰めれば他人。他人の思っていることを100%理解するなんて無理な話かもしれませんが、相手のことを理解しようとする手間を惜しまないことが大切なんだと思います。
自分の気持ちも他人の気持ちもコロコロと移り変わるものなので固定せず都度向き合うことができれば、家族でも友人でもいい形を作ることができるんじゃないかなと、そんなことを学べた1日になりました!
そしていつか僕が話をする番が来た時、その時話を聞いてくれている誰かの背中をそっと押せるような生き方をこれからしていきたいなと思いました。
正義を貫き、真っ当に人生を謳歌します!
Yさん、とても素敵な時間をありがとうございました!
僕のことを応援したいと思ってくださる方がいましたら、サポートもぜひお願い致します。 サポートは全て世界一周と起業するための費用にさせて頂きます。 これからもどうぞよろしくお願いします!!