魔法の料理
〝叱られた後にある晩御飯の不思議 あれは魔法だろうか 目の前が滲む〟
今日本で問題視されつつあるのが、食べることに関心がない子どもたちが増えているということだ。最近も若手タレントがとあるテレビ番組で、三食仕方なく食べている、美味しいと感じないと発言し、話題になっていた。そういった子どもたちが少しずつ、だが確実に増加している。
とある地域で不登校の子どもたちを集めたスクールを作り、寮生活をさせてみたところ、食堂にきても全く美味しいと感じず、一人で早々と食べ終わり、自室に帰っていくそうだ。
そこでこのスクールの管理者は、いい賄いを作れる人、寮母さんを探した。その人は、あの子はこれが好きやな、これが嫌いみたいやな、こう接したら返してくれるな、など一人ひとりに目を配り、さらに食器にも一人ひとりこだわっていったそう。するとどうなったかというと、
「おばさん、これ美味しいな」
と一人、また一人と声をかけてくれるようになり、それぞれがあれが好きだこれが食べたいと発言するようになったころ、学校に通い出すのだそうだ。
また、とある老人ホームのおばあさんのお話では、そのおばあさんは入居当時から日常生活は自立していたが、ある時体調を崩してから徐々に歩けなくなってしまった。それと同時に、ご飯を口にしなくなったそうだ。
職員たちはなんとか食べてもらおうとあれやこれやとおばあさんに関わる。出前をとったり、一緒に食べたり、試行錯誤を繰り返した。
そしてある時おばあさんはこう言った。
「入れ歯が痛いんじゃ…」
ならば話は早い。早速近所の歯医者、それも建物の二階にある歯医者だったが、職員がおんぶして、なんとか毎週通った。
そして入れ歯は完成。これでやっと食べてくれる…
職員は安堵し、そしてその期待通りにおばあさんはご飯を食べてくれたのだった。
入れ歯は机の上に置かれていた…
僕たちには食べ物を食べるということの前提に、自分は生きている、生きていていいんだ、というような所謂生の肯定感というものがなくてはならない。
そしてその肯定感とは、自分と周りとの関わりから生まれ育まれることが多い。
不登校になってしまった子どもたちや、食べることをやめてしまったおばあさんは、生への肯定感というものが限りなく薄くなってしまっていたのではないか。そこに、一人ひとりを見つめてくれる人、おんぶをして階段を駆けてくれてまで自分の訴えを叶えようとしてくれる人、そういった人との関係を通して、再び自分を生きてみようと思えたのではないだろうか。
冒頭の詩は、とあるアーティストが、誰にでもあるような、幼い時の心情を、今の自分に向けて唄ったものだ。
叱られた後であっても、いつもと変わらずに出てくる料理に、不思議な温かさを感じる。
そういった料理そのものがあるのではなく、そういった人との関係を通して、ただ一人のための、たった一つの料理になるのだ。
きっとあの子どもたちも、入れ歯をしないおばあさんも、そんな不思議な魔法を感じたのだろうと思う。
そしてその魔法は、誰もがかかることができ、誰しもがかけることができるのだ。
あなたにとっての、魔法の料理はなんですか?