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言祝げる社会
本日、我が施設で成人式が執り行われた。といっても当然ながらお年寄りたちははるか昔に成人している。
一人の新入職員が、このコロナ禍で成人式が中止となってしまったため、サプライズで敢行したものだ。
仲の良いおばあさんは涙ながらに祝辞を読む、それをしっかり受けて答える職員。それはそれは感動的な式典となった。
成人した男の子とは歳の差およそ四倍。それでも祝い祝われる、素敵な関係性が育まれていくその過程に遭遇出来ることは、この仕事の特権だ。
今世の中は多種多様な予防のオンパレードだ。老いてはダメ、認知症になるともっとダメ。予防予防と国は囃し立て、予防講座が街に溢れかえる。もしも自分が…家族が認知症になってしまったら…という空気感が漂う社会となってしまった。
認知症の症状は様々だ。その一つに被害妄想というものがある。嫁を泥棒扱いしたり、ヘルパーに財布が盗まれたと騒いだり、暴力を受けていると近隣に訴えたり。男性では嫉妬妄想が多いように思う。こうした訴えは、無意識的に、一方的な関係性からの一発逆転を狙って起こるものが多いのではないだろうか。介護を受ける自分が受け入れられないからこそ、相手の価値を下げそのバランスをはかろうとする。でもずっと不思議に思っていたことがある。なぜこういった「被害」という形で現れるのだろうかと。
認知症といえば記憶障害、というのが一般的なイメージだろう。さっきのことを忘れる、覚えられない、場所がわからないなど。その辛さは僕らでは想像もできない。ただ、なぜ記憶の障害が生じると、被害的になってしまうのだろうか。
若年性アルツハイマー病の方は、主観ではあるが、こういった被害的な訴えは少ないように思う。彼らは自分が認知症であるということを理解していることが多い。ほとんどの方に病識があること。ここがお年寄りの認知症の方との大きな違いのように思える。そしてこの疑問の鍵ともなる。
認知症のお年寄りの方は、恐らく自分が周囲と何か違う、おかしな言動をしているということを無意識の中で感じとっているのではないか。しかし、それを悟られるわけにはいかないのだ。なぜならば、ボケてはダメだという価値観が、社会全体を取り巻いていて、ボケていることが悟られれば、排除の対象になることがわかっているからだ。
お年寄りたちはみんな揃ってこう仰られる。
「ワシはボケとらん」
「ボケたら終わりじゃ」
老いた自分を認められず、社会からも認めてもらえない。そんな苛烈な状況に対して、妄想という形で僕ら介護者に挑んでいるのだ。
「お前たちはまだわからんのか」
祝辞を読む際、おばあさんは
「おめでとう!これからもよろしくお願いします」
と仰っていた。
男の子は
「ありがとう、また喧嘩しようね」
と答えていた。
それは、どんな状態になっても、喧嘩するようなことがあっても、傍で支えるという決意の言葉。
ボケても大切なものはなにも変わらない。そう思える社会をつくることこそが、今の世の中の喫緊の課題だ。
老いを言祝げる社会。それこそ目指すべき方向性だ。長生きして良かったと思ってもらうために。二人の関係性から、その可能性を確かに感じ取ることができた。