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思い通りにするために得た信頼関係なのか



辺りに静けさが反響する午前四時。
朝の忙しさをシュミレーションしながら、熱いコーヒーを飲み、眠気を誤魔化す。夜勤中最後の穏やかな時間だ。

そんな時に鳴るナースコール。
少し小走りで居室にうかがうと、慌てた様子でおじいさんが飛び起きてくる。

「あぁなんてことや~迷惑ばっかりかけて~!」

理由はよく分からないが、この時間まで寝てしまっていたことがいけないことだと思っているおじいさん。
ここで再度入眠を促しても無駄なことは、長い介護職経験からひしひしと感じとれる。
とりあえずフロアにお連れしてから、冷めたコーヒーを一気飲みし、おじいさんの混乱につきあう。

「あぁ兄ちゃんで良かった~帰らなあかんやろもう?」

夜間特定の人の時だけ、いわゆる不穏になるということがある。
現場では「当たり」だなんて揶揄するように言われるが、特定の人の時だけ都合よくそんなことが起こるはずはない。

その多くは、お年寄りから個体識別されていないことにあるように思う。ようは知らない奴が夜にごちゃごちゃ言ってくることに対しての、対抗措置として不穏になっているのだ。

だからこそ、ラポール形成のために単純接触効果を利用したコミュニケーションを意識的に図っている僕に死角はない。例に漏れずおじいさんから優しい兄ちゃんと認識されており、この場も大きな混乱はない。

混乱はないが…それだけでいいのか。

技術を通じて育んだ関係性

「兄ちゃん、つきおうてくれるか~?」

家に帰ろうとするおじいさんにつきあう。
エレベーターが動かない、玄関には鍵がかかっている、というリアルオリエンテーションをしてみても、おじいさんの焦燥感は消えない。何度も試しては打ちひしがれる。

だが、おじいさんは諦めない。なぜなら、ここには僕がいるからだ。

「あぁ良かったわ兄ちゃんで!頼りにしてる!」

一緒に行動している中で、どんどん僕に対しての信頼感が高まっていく。把握出来ない状況の中、落ち着いて対応してくれる、全てを見透かしたような存在は、砂漠の中のオアシスのように映るだろう。
⁡本当は、僕こそ乾きの原因であるというのに。

「ここで待ってます!兄ちゃんは用事済ましてな!」

時刻は五時半を周り、少しずつあたりも明るくなり、居室から起きてくる方も出てきた。そんな僕の様子を察して、キラキラした目で待っていてくれる。七時になれば早番の人が来る、という趣旨をおじいさんに伝え、それを共に待つということで落ち着いた。

「ありがとうな!ここでええな!」

何度も確かめるように僕を頼ってくれるおじいさん。信頼感と共に罪悪感が募っていく。僕はおじいさんの混乱をコントローラブルな事象とするために、あらかじめ信頼感を得ていたのだろうか。

一切の猜疑心なく僕を見つめるおじいさんを尻目に、罪悪感から目を逸らしつつ業務へとひた走る。
⁡おじいさんはフロアでちょこんと座って僕の方をただ見つめていた。

そして約束の七時。おじいさんは早朝のことを忘れてくれていた。

「これが印やねん。これを首に巻くとご飯くるんやで」

いつもつけている布巾を指さし、丁寧に説明してくれる。
その姿をみて僕は深く安堵する。

思い通りにしてはならない、という思い

僕らは時にその技術を、お年寄りの生活を支えるという大義名分の元に、その場を操作するために行使する。それらがもちろんすべて悪いこととは言えない。

だが、忘れてはならないのは生活の主体はその人だということ。その自覚がなければ、技術はその人を傷つける刃として機能してしまうこともあるのだ。
対人援助の基礎をなす信頼関係を育むために、技術をもっておじいさんと出会った。
それは決しておじいさんのことを操るためではないという内省が必要だ。

人は思い通りにはならない。これを忘れてしまうと、いざ技術を用いてコントロールしようとして思い通りにならなかった時、負の感情が芽生えるだろう。その矛先は、技術が通用しなかったおじいさんに向かうか、技術力が不足していると自分に向かうかだ。本来どちらのせいとはなかなか言えないもののはずだ。相性ということもある。技術は、そういった様々な要因を全て掌握してしまう危険性を孕んでいる、技術主義に陥る可能性があるのだ。


「気ぃつけて帰りや!」


退勤の挨拶にうかがったとき、投げかけられたおじいさんの言葉を頭の中で反芻させながら、ぼんやりと帰路に着く。

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