バナナと銀河鉄道
「今日も不穏になられていました」
その言葉が嫌いだった。当時は上手く説明出来なかったが、おそらくそうさしてしまった自分の不甲斐なさと、不穏なことのなにが悪いんだ、とアンビバレンスな感情を抱いていたからだと思う。
おばあさんは不穏になると、決まって自分の名前を叫んでいた。先生だー!と肩書き付きで。
きっと自分の居場所を守ろうと必死だったのではないか。それはおそらく、僕らとなにも変わることがない。
バナナが大好きなおばあさん。少しずつ食べない日が続いていた。一生懸命に今日のご飯を食べてもらおうとする。それ自体は確かに大切だが、怒るおばあさんをみて、どこか虚しくもなる。もうそこまでして食べなくてもいいじゃないか。
好きな時に好きな物だけ食べてもらおう。
そう決定したが、やはり迷いはあった。それは、もう緩やかな死へ向かう段階なんだと、宣言したと同じだったからだ。
そんな中で、おばあさんに対してのたくさんのエピソードが作られた。教えられたことは枚挙にいとまがない。
買ってもらったバナナを高らかに掲げて帰ってきたその姿は、多くの職員を歓喜させた。
そして大好きなバナナも食べなくなっていく。
小さく刻んだ大量のバナナを前に、おばあさんは絶えず自分の名前と、もう会うことの叶わない人の名前を叫び続けた。
おばあさんは嘆いていた。本当は無意識には理解していて、この理不尽ともとれる世界に対して憤っているのじゃないか。この悲しみは誰にもわからないだろうと。
だったらわからないまでも、その悲しみに沿うことくらいはできるんじゃないか。それは食べないとわかっていてもバナナを出してみたり、一緒に名前を叫んだりすることで。
「今日も不穏になられていました」
これがずっと語られるようになれば、おそらくおばあさんの嘆きは治療の対象となり、薬が処方され、おばあさんは嘆くことすらできない存在になるだろう。もうそんなのは真っ平御免だ。そもそもそれを申し送っている職員の方が不穏だったりする。
ある時、田舎に帰る!と、歩けないのに歩こうとするおばあさんにどうやって帰るのか聞いてみた。
「電車に乗って帰るんや!」
離島なのにどう電車で帰るつもりなんだろう…それが可笑しくてちょっと笑ってしまうと、おばあさんは
「電車を知らんのか…??」
と心配してくれた。おばあさんの中では電車は万能で、知らないとまずいものらしかった。
切符を買って、席に座っていれば、目的地にまで自動で運んでくれる。
おばあさんはその電車に乗れば、自分の居場所に連れていってくれると、そう信じていたんだと思う。
そんなおばあさんに、僕はただ傍で笑っているしかなかった。それは不可能だとわかっていたから。
僕らとなにも変わることがない。
誰もがそれぞれの切符を買ってここにいる。
自分の荷物の置き場所を必死で守っている。
ガタガタ揺られながら、確かに始まりから離れて、終わりに近づいていく。
動いてないようにみえても、僕だって進んでいる。
おばあさんは程なくして亡くなられた。
あれだけみんな騒いでいたが、みんなこぞって顔を見にきていた。それだけみんなの関心も高かったということ。いつしか施設中から先生と慕われていたのだった。
大好きだったバナナをたくさん棺に入れてもらっていた。もちろん食べないとはわかっていたが、気持ちはあの時と一緒だった。
僕らは時にお年寄りの大きな嘆きに飲み込まれそうになる。挫けて悩んで心が折れて動けなくなる。でもそれでいい。バナナを出したことは無駄じゃない。一緒に名前を叫んだことも。おばあさんの居場所を作ろうとした。それだけで良かったし、それが良かった。
動いてないようにみえても、確かに進んでいる。
おばあさんはきっと、電車に乗って帰ったはずだ。
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