所詮無理なこと
「○○が許せない」「○○を見るとイライラする」
他人のそういう言葉を耳にすると、以前の自分のようだなあと思う。そして無駄なことに体力と時間を注ぎ込み、精神をすり減らしているなあ、と気の毒になる。
「許せない」というのは「自分の許容範囲内に他人が入ってこないことに対する憤り」である。「イライラする」というのは「他人を自分の思い通りにコントロール出来ないことに対する苛立ち」である。
他人が自分の思い通りになるなんて、そんな事ある訳がない。振り返って自分を考えてみれば良い。誰かの思い通りに動きたいだろうか。自分の意思を蔑ろにされて、嬉しいだろうか。
人間である限り、自分の意思に従いたいはずである。
夫は姑と話すのを避けたがる。「おんなじ話を延々と、しょうもない話題を有難そうに、些細なことを大袈裟に話すから疲れる」と言う。
確かに姑に毎日電話していると、毎日同じ話題である。でもそれは今の姑にとって話したい話題であるから話しているのだと思う。
冷える足を温めたいので、靴下の上からカイロを貼っている、と言うのはどうでもいい、しょうもない話題である。が、姑にとっては頭を悩ませた末自分で編み出した、ベストな案である。誰かに報告したいのかもしれない。
睡眠導入剤なしで眠れるようになった、というのも好ましいことではあるが、別に眠れないなら無理せず飲んだって良い。が、姑にすれば自分のことが誇らしい。身体にも良いに決まっているから、嬉しい。変化に乏しい生活の中で数少ない、気分が高揚した経験を誰かに聞いてもらいたい。
それを夫のように「もう聞いたわ」とか「それでどないやねん」などと反応していては、お互いイライラし、ストレスはたまる一方だろう。
「姑の」話題である。「こちら」に取り込まなくても良い。取り込まなければ腹なんて立たないのだが。
勿論、我慢する義務なんてない。私は夫が話を聞きたくないなら聞かなくていいと思っている。
子供は親の言う事を聞いてやる「べき」だなんて法律もない。育ててもらったことは、話を聞く交換条件にはならない。
夫は姑と言う「他人」を「自分の思う理想の姿」であって欲しいと考えるから疲れるのである。そして私は「今は」夫はそういう心理状態なんだな、と思ってただ見守ることにしている。「たまには聞いたりいや」と思うこともあるが、怒ることはない。ああ、「今は」逃げたいんだな、と思って見ている。姑は私より夫と話したいだろうけれど。
話題は豊富。年齢を重ねてもシャンシャンと元気。いつも前向き。身体の不調なんて訴えない。子供を頼らない。
そういう状態であって欲しい、そう願うからこそ、そうでないことに腹も立つ。イライラする。
ではストレスを溜めない為にはどうすればいいか。
それは「他人の事」と割り切ること、自分との間に線を引くこと、かなと思う。私が容易に毎日同じ話題につきあえるのは、血の繋がらない者の気安さも大きいが、これがあるからだろう。
「外に散歩に出てみた」と聞けば、「良かったですね、久しぶりで気持ち良かったでしょう」と返す。「え!危なくないの?」とは返さない。
「薬をやめてみた」と聞けば、「それは良かった」と一緒に喜ぶ。「今まで飲まんでもええもんを飲んでたんやな」と批判しても、益のないことである。
外に出て危険な目に会うかもしれない母親を心配する子供の気持ちはわかる。だが、姑はそこも含めて覚悟の上で外に出ているのだろう。認知症なら話は別だが、そうではない。
好きにさせてあげれば良い。何かあれば姑が自分の問題としてとらえて、考え、行動するだろう。待つのはもどかしいが、そこの試行錯誤の段階まで奪うのはどうかと思う。
安全性とのバランスが難しいけれど、「見守る」と言うのは本人の自主性を尊重して、本人のテリトリーに踏み込まないことが大事なのかなと思う。
子育てにもどこか通ずるものがある、と深く自省している。
私が毎日姑に電話をしているのは、義務感でやっているのではない。
以前の私なら、
「自分のやるべき事を私に押し付けやがって、とんでもない奴!」
と夫を憎々しく思っていたに違いない。そして今の夫と同じように、姑の話に辟易していたと思う。そもそも毎日架けられなかっただろう。
私が電話をするのは、「今の」私がそうしたいと思っているから。夫を責めないのは、「今の」夫には私と同じことが出来ないであろうことを理解しているから。その理由もわかっているから、に他ならない。
姑が生きている間に、「今の」私と似たような心境で、夫が姑の話し相手になれるかどうかはわからない。もしかしたら無理かもしれない。
だけどそれは夫の問題であって、私には関係ない。後悔するのも、ああするしかなかったと思うのも、夫の自由である。
私はただ、「今の」私がしたいようにする。
最近やっと、ただそれだけが姑の為に私に出来ることである、と思うようになった。