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自己犠牲、自己承認、自己満足

前に所属していた楽団は、長い歴史があった。しかし地元有志の厚い支援を何十年とうけているにも関わらず、それにこたえるような活動は一切行わず、団員の士気は停滞し、定期演奏会の度に有能な団員が櫛の歯を引くように辞めていった。観客動員数も長い間低迷していた。そういった出来事に危機感も覚えず、また覚えたところで何の策を講じるわけでもなく、ただ辞めていく人を指をくわえて見ているだけの楽団だった。
入団当初はこういったことが何故起きるのか、不思議で歯痒くてならなかった。ここの一つ前に所属していた楽団とのあまりの違いに驚いた。
このままではこの楽団は消滅する。
強い危機感を抱いた。

まずは団員の意識改革が必要だった。
運営は特定の人に「してもらう」ものではない、一人一人が「参加」するものなのだ、ということを力説して回った。
初めのうちは暖簾に腕押し、糠に釘だった。なんか熱い人入ってきたなあ、と疎ましそうにも見られた。

しかし、地元の支援の厚さと長さを知った時、絶対にこのままではだめだと思った。
文化活動に対する支援に対するお礼は、団活動の活性化で地域に返すのが当然ではないかと思った。なぜ、皆やらない?
「お前がやるしかないんとちゃうの。自覚してるもんが」
夫にはそう言われた。

事あるごとに運営への「参加」を訴えながら、改革に手をつけるよう、誘導していった。
選曲過程の透明化。楽譜の早期配布。演奏会の準備の前倒し。練習計画の作り方。依頼演奏の積極的な受け入れを推進。地元へのアピール。セクション練習の開始。団員指揮者の養成。全員に何かの役を割り振る。
みんな、もっとこっちを向いてくれ。プライベートの全てを傾けろとは言わないから、今よりほんの少しで良い、関心を持ってくれ。そう祈っていた。
全てを提案し、人を頼らず、自力で出来ることは全てやった。役所、コミセン、学校へ積極的に出向いた。
やることが多すぎて、身体がいくつあっても足りなかった。

そのうち私のやり方に賛同し、手伝ってくれる人が沢山現れ始めた。積極的に動く人が現れた。嬉しかった。
が、同時にそれまでのぬるま湯を良しとしていた人たちからは、かなり煙ったい存在として疎まれた。
誰からも好かれることは不可能であるのに、当時の私はこれがとても辛かった。

正しいことをしている自信はあった。音楽監督の先生からも背中を押して頂いた。
今思えば、彼らの「正しさ」と私の思う「正しさ」が別であった。
たとえそれが彼らの依存的な自己満足であったとしても、それはそれで「正しかった」のである。当時の私がそれを許せなかっただけである。
かなり傲慢だったと言えよう。

嫌なら舞台を降りれば良かった。
だが、「あなたのおかげで良い団になった」という内心の他己承認による陶酔が、私を麻痺させていた。
何のことはない、ぬるま湯族の彼らと同じく、私も団活動に「依存」していたわけである。
他己承認は使ったことはないが、覚せい剤みたいなものだろう。一度味を覚えると、もっともっとと欲しくなる。それに寄りかかる。ないと急に不安で、胸にぽっかり穴が空く。自分の存在意義を見失う。
自分でそのままの自分を認めていないからだ。

近い将来、退団しなければならないのはわかっていたから、私は最後の一年を引き継ぎに充てた。
楽団は構成員が変わっても、一つの生き物として存続していかねばならない。そのためには限られた人だけが頑張るのではなく、「頑張るバトン」を次の世代へと渡せるよう、徐々に身を引いていかねばならない。
これが一番難しかった。
自身の承認要求に蓋をすることがとても苦しかった、という面があるのは否めない。

今、引き継いだメンバーはとても立派に運営をしてくれている。
私が思い込んでいた「私しかやる人がいない」は大きな間違いだった。
一歩身を引けば、人材はちゃんといた。燈台下暗し、とはこのことだ。
私がその人達を遠慮させていたのかも知れなかった。
皆で分業を上手にして、とても良い楽団になっている。

短いスパンで物事を見ないこと。
自分だけの正しさを押し付けないこと。
自分を一歩引いた所から客観的に見ること。
熱い思いは必要だけど、冷静さを失わないこと。
耳に痛い言葉を言ってくれる人を遠ざけないこと。
対立ではなく、調和で物事を進めること。
周囲に常に感謝を忘れないこと。

以上が私が楽団運営にかかわって得た、人生の教訓である。
迷惑もいっぱいかけたけど、いい経験をさせてもらった。
楽団は勿論、私も変化し続けている。