これからの為に
少し前になるが、福岡でまた痛ましい事件が起こった。ストーカーとされる男性が元交際相手を大勢の人の前で刺殺した、という。
桶川のストーカー殺人以来、同じような事件は後を絶たない。なぜ、どうして、大切な人命が突然失われ、悲しい思いをする遺族が生まれることを防げないのか、といつもこういう事件がある度、無力感を覚える。
被害者や犯人の人となりや二人の関係などを、まるでのぞき見して喜んでいるような、興味本位としか思えない報道も多すぎると感じる。なんの目的で報道しているのか、真意を疑う。可哀想に、許せない、と涙を流し憤ることが全く無意味だとまでは言わないが。
桶川のストーカー殺人の後規制法が制定されたが、果たして抑止効果について検証はされているのか、疑問に思う。何事も実行してみた後は効果のほどを検証し、改善していくのが筋だと思うが、この法律についてはどうなっているのだろう。
心理学はおろか法律についても、しっかり勉強をしたわけではないズブの素人が言うのも恐縮だが、ストーカーと言うのは『恋愛依存』の極端な形なので、法律がどんなに「やってはいけない」と言って規制したところでその極端な行動を完全に抑止することは出来ないだろうと感じる。
飲酒運転をどんなに厳罰化しても、飲んで運転することをやめられない人がいるのと同じ気がする。
普通刑罰には『応報刑』という犯罪者への『報い』としての役割と、『教育刑』という犯罪者を更生させるための役割があると思う。
『報い』とは『ある行為の結果として自分の身にはね返って来るもの』と辞書にある(新撰国語辞典 小学館)。つまり刑としての実効性は、その刑が「『自分の』行為の引き起こしたことに対する罰」という自覚が犯人になければ生じない。凶悪な事件を引き起こすようなストーカーの場合、多くは「あいつが俺に好意を寄せないから俺がこんな刑をくらうことになった」くらいの自覚しか持てないのではないだろうか。遺族と本人の無念さが十分に届くとは思えない。
教育で更生すると言っても、こういう加害者が『依存症』の治療なしで自分の犯した罪の重さに気付くのは難しい面も大いにあるのではないか、と感じている。
そして『依存症』に陥ってしまった加害者を『治療』と言う形で正常な判断が出来る状態に戻して初めて、『教育』をすることによる再犯の抑止効果があると思う。
アルコールや麻薬の依存症については『ダルク』などが有名だが、ストーカーについてこういう施設はないのだろうか。もし地道に活動している方がおられたら申し訳ないが、あまり聞いたことがないように思う。
法律でぎゅうぎゅうにこれでもか、これでもまだやるか、と押さえつけても、やる人はやる。ある程度の効果は否定しないが、厳罰化されてもまだやる人がいるというのは法の限界を示しているということだろう。
同じことは少年法の厳罰化にも言えるという気がずっとしている。
少年の場合はちゃんと「医療少年院」という施設がある。過去に劣悪な事件を起こした少年たちを更生させるべく、沢山の方が地道な努力をされたのだろうと思う。子供とは言え、一人の人間を『育てなおす』作業は想像も付かないほど大変な、薄皮を少しずつ剥ぐような作業に違いない。関係者の方々には本当に頭が下がる思いがする。
大人はどうだろう。刑務所は『悪いことをした人が罰を受ける』という、応報的な役割を期待されている部分が大きいように思う。
勿論就業訓練なども行われているのは知られている。それも大事だが、もっと制度的に『根っこの部分』に着目するべきなような気がしている。
『なぜ、そんなに一人の人間に執着するようになってしまったのか』『なぜ、自分本位に人の命を奪うまでに激高してしまったのか』という加害者の精神の『治療』に注力する方向に社会全体が考えて行った方が、きっと有効な犯罪抑止に繋がると思う。
2000年の佐賀のバスジャック事件で友人を失い、自らも大けがをして助かった女性は、加害者である少年に三度面会に行ったという。初めての面会で謝罪した少年に、彼女は寄り添う言葉と同時に「あなたの罪を許したわけではない。許すのはこれから。これからのあなたの生き方をみているから」と涙ながらに伝えたそうだ。後に届いた少年からの手紙には罪を反省する言葉と共に、「暖かい思いが沸き起こった」と書かれていたらしい。
ここまで丁寧に一人一人に向き合うのは難しい。彼はストーカーでもないし、同じように論ずるのは違うと言われればそうだろう。
だが犯罪に走ってしまう加害者の心の傷を修復し、真に『人を大切にする』人間を作り直していくことを、社会全体で考えるべき時にきているような気がしている。これはきっと、厳罰化より遠回りに見えて実はストーカー犯罪を減らす近道だと思う。
大切にされた人間は他人を粗末に扱ったり出来ない筈だ。
私に出来ることはなんだろうか、といつも考えている。