見出し画像

制約という名の自由

僕がいつも座っている椅子は少し固くて、長時間座っていると腰や尻が痛くなる。このことを自分への言い訳にして、毎度お馴染みの特別急行ベッド行きが発車し、ぐうすか昼寝に勤しむ毎日。ところで、3時間前くらいに枕を椅子にのせて座ったら全然どこも痛くならないことに気付いた。僕は大変愚かな人間だということをまたもや自覚してしまった。人間失格だ。(言いたいだけ)いつも事あるごとに「椅子座ってると腰痛くなるんだよなぁ」とノムさん並みのぼやきをぶちかましてきたが、超絶怒涛の簡単奥義"枕敷き'"によって僕のぼやきは一瞬にして粉砕された。僕はまだまだノムさんには遠く及ばない。

そんなことはいいとして、本題に入ろう。   この世界には制約というものが存在する。制約とは、条件をつけたりして活動の自由を制限すること、と辞書に書いてあった。つまり、人間が何か行動をする時に自由をあえて制限して「外の世界」にはみ出さないようにするということと解釈して良いだろう。この場合の外の世界とは、非常識だとか犯罪だとかインモラルだとかそういう類のことだ。ゆえに、この世界に制約というものが存在しなければ、地球は無秩序の球体と化してしまうだろう。だから、ほとんどの人間は制約を必要不可欠なものと認識している。しかし、この制約が小さなもの、つまり身近な制約の場合どうだろう。例えば校則。校則という学校内の制約には、厳しすぎるとかもっと緩くしろとかそんな反対の意見も多数あがる。しかし、一方で校則が逆に甘いと、ちゃんとルールを決めてくれなどといった声も多くあがる。非常に難しい問題だ。

制約というのは、自分の行動が限定されることだ。例えば会社内なら、一般的な平社員は制約をかけられ、自分のやるべきことを限定されてその仕事を時間内に取り組む。逆に、その会社の上の方の人たちは、どのようなことをすれば会社の利益が上がるかなどと思考を凝らして、それをするためには社員に何をさせればいいかを考え、その結果社員に制約をかける形で仕事を与える。そんな上の方の人たちは、仕事を生み出し部下にそれを与えることが仕事であり、もちろん制約をかけられ行動が制限されている。よく、仕事を与えられた社員が上司に向かって文句を言っている場面をドラマなどで見たり、バイト先でもそういった光景を目にするが、その与えられた仕事は、上司がとんでもない時間を使って考えて、自分たちと同じように制約をかけられ、会社をよりよくするために作り上げた最高の作品である可能性もあるというのに。また、上司側も部下に大変な作業をさせたりすることは罪悪感を覚えるのにも関わらず、自分を押し殺して仕事を与えているかもしれない。だから、部下は与えられた仕事を上司たちが一生懸命考え抜き、会社をよりよくするために用意したものと捉え、その期待に応えるべく手を抜かずにこなしていく必要があるのだ。逆にいえば、部下たちはその仕事だけをやればいいだけの話なのである。つまりこれは、非常に良質な制約ではないだろうか。一般的な企業や会社がこんな綺麗事が通らないことはもちろん理解しているが。

どこへ行こうが何をしようが制約というものは必ずついてくる。だが、その制約を厄介なものと捉えてストレスや怒りを感じるよりも、自分のやるべきことが限定されているから、「あ、今僕、私はこれだけを集中してやればいいんだな。」と思って制約をプラスに捉えるようにすればいいのだ。

やるべきことが多すぎて、何から手をつけていいか分からない時がよくあるだろう。そんな時は自分にあえて制約をかけて自由を制限し、やることを限定することで一つのことに集中して取り組むのもアリだろう。もしかしたら、これが一番の自由なのかもしれないしね。         「制約という名なの自由」とりあえずタイトル回収はできたかな。

いいなと思ったら応援しよう!