視覚だけの記憶
先日、なおぽんさんが夏の匂いのnoteをあげていた。
情景が思い浮かぶnoteに感心しながらも、ぼくは匂いの記憶が思い出せずにいた。
小学生の頃の、今でも鮮明に覚えている記憶。
草が光り、夏の青さに照らされ、フェンスを置き去りにする。
なんてことない日。
それが、毎年、夏になるたびに思い出されるのだ。
ぼくの記憶は、写真のように視覚だけが残っている。
初めて暮らしたマンションで迎えた冬に、めずらしく雪が積もった。
妹と二人で喜び走り回ったはずだが、そこには音も匂いもないし、コマのように場面が記録されている。
その冬は、自転車に自信があったぼくは盛大にドリフトをかましたのだが、それも同様である。
車に前輪から突っ込んで跳ね飛んだり、保育園のときにアイススケートで転んで手首の神経が見えたり、小さい頃の色々も視覚だけが残る。
視覚だらけの記憶は、いつしか人生をも形成するのだけれど、音楽だけは違った。
耳から流れ落ちる曲は、視覚だけの記憶を呼び起こす。
夏が特に多くて、浜崎あゆみの「monochrome」が毎年、よく流れる。
今は、久石譲の「The rain」である。
当時のぼくは良い状況ではなかったけれど、音楽が呼び起こす記憶は、肯定してくれる。
流れるしずくが、ぼくなんだ。