おべんきょと謙虚さ


凄い時代になったなあ。

20歳の自分ですら度々そう思うことがある。

私が小学生の途中からだんだんとスマホが普及し始めた。

今や日曜の渋谷のスクランブルスクエアで石を投げて当たった人がガラケーを使っている確率はほぼ0だろう。

そしてそれとともにSNSや各種ネットサービスが急速な発展を遂げ、一部の国を除けば誰もが自由に世界に自分の考えを発信することが可能になった世界である。

一昔前まで、自分の意見を発信するのには決して少なくない手間と労力、時間といったコストを払う必要があった。

例えば新聞や雑誌に意見を投稿したり出馬したり、本を書いたりはり紙をはったりテレビに出たり...

少なくとも指先をちょいと動かしただけで発信することはできなかった。

そして一度意見表明をすれば、常にその責任がつきまとっていた。

昔はたとえばテレビで過激なことや不適切な発言が放送されたところで特に社会的ムーブメントが起こることはそうそうなかった。

「不謹慎だ!」「不適切だ!」「気に食わん!」

メディアを見て激しい感情が込み上がってきたとて、大多数の人はテレビにクレームを入れたり意見投稿しようと準備し始める頃には

冷静になってたり関心を失っていたりする。

何よりめんどくさい。

それから半世紀も経たないうちに状況は一変した。

SNSを通じて人々は「誰も」が「リアルタイム」で「出来立てほやほや」の「感情・意見」を発信するようになった。

情報・感情・意見の巨大な波に押されてコンプライアンスはますます厳しくなり、お互いに監視し、賛成し、反対するようになった。

「炎上」という言葉が盛んに使われるようになった。

もちろんSNSの発達によって人類が獲得した恩恵は計り知れないものである。

虚構かどうかはさておき、「民意」と呼ばれるものが社会に広く通るようになった。

不正は暴かれ、有益な情報は飛び交い、助け合いが広がった。

今やひとりひとりがインフルエンサーである。

タレントにダイレクトメッセージは送れるし個人は特定できるしいいねやリツイートで情報拡散をすることだってできる。

フォローする人によってはタイムラインの思想が偏ることはあるものの、全体としてみると多種多様な思想が集う理想的な空間が、そこにはある。

そんな混雑した仮想空間の中で飛距離がある言葉を意識的・無意識的に使う人々は多い。

“ 断定 “

「この事件で悪いのは100%アイツだ!」

「この意見は確実に!間違っている!」

「そんなわけあるか!」

言い切る人は魅力的に見える。

自分の意見をちゃんと持っていてまっすぐなように見えるから。

そして多くのいいねをゲットし、拡散されていく。

そして自分には力があると勘違いし、ますます発言は断定的になる。他の人も真似をして感嘆符(!)だらけのタイムラインが出来上がる。

疑問符(?)はすみっこへと追いやられていく。

そんな界隈を見たとき、私の脳内ではいつもB’zの「イチブトゼンブ」という曲が流れる。

そもそも

「世の中の多くのものごとは決して言い切ることができない!

と私は個人的に思う。」

二行目が大切である。

(しかし、「と私は個人的に思う。」を付け加えた途端にいいねの数が激減する)

6という数字は反対から見れば9なのである。立場や価値観が違えば真理も変わる。

しかしSNS上には、「6を9だと思う人がいるかもしれない」という想像力が働かない人が多くいる。

そういった人たちは自分が見る景色こそが世界の正しい姿だと信じて疑わない。

だから自然と断定口調になる。

スキャンダルを起こした芸能人を、気に食わない人を断罪する。

“あなたは私のほんの一部しか知らない”のに。

もちろん常に断定的な考えをしないということは難しいが、学校の勉強をちゃんとしてきた人たちはその態度が自然と身についている

場合が多いように感じる。

例えば数学では、普通に解こうとすると超難問だが、アプローチを変えてみるとすんなり解ける問題というものとよく出くわす。

そういった類の問題は最初は解けなくても解答を見て驚き、次に出会った時は「別の見方があるのでは?」という想像力を働かせることができる。

そうやって学習した態度は机の上を飛び出し、生活のあらゆる場面で助けてくれる。

あそこの角から子供が飛び出してくるかもしれない。

あの子は口ではああ言っていたけど、本当はこう思っているかもしれない。

見方を変えれば、いま自分は幸せなのかもしれない。

そして大学生にもなると、浅はかな断定に違和感を覚えるようになるし自分の発言や考え方も多角的になる。

東大に通っていてよく思うのは、「寛容な人が多い」ことだ。

頭ごなしに意見を否定してくるような東大生に会ったことがない。

受け入れがたいことであっても一度は飲み込んでくれるので、話をさえぎられない。

「確かにその考え方もある」って言ってくれる。

一見流されやすく頼りなく見えるかもしれないが、それが本当の「かしこさ」だと私は思う。

勉強を一生懸命することで、その努力は勝手に「かしこさ・人間力」に昇華される。

「高学歴は勉強ばっかりしてきただけで調子に乗って人を見下していて性格が悪い奴が多い。実際おれの職場にいる東大卒のやつはコミュニケーションもろくに取れない無能だ。”人間力”が一番大事。」

みたいなことを呟いている人を時々見かけるが、ツッコミどころ満載でかわいそうになってくる。

まず断定口調を使っている時点でお察しだし、あなたはその人の性格の「全て」を把握しているんですか? それはその人の「一部」に過ぎないんじゃないですか?と聞きたい。

それに何万人といる東大の卒業生のうちたった一人の例を出して一般化するという、数学の証明をちょっとでもちゃんと理解した人ならば怖くてできない論理を振りかざしている。

「仮説」なら百歩譲ってわかるんだけどね。

ちなみにこの話でいうと、さっき私が

「頭ごなしに意見を否定してくるような東大生に会ったことがない。」(だからほとんどの東大生は寛容な人である。)

と述べたことについて

『「頭ごなしに意見を否定してくるような東大生に会ったことがない」というのをお前だって一般化して「ほとんどの東大生が寛容である」と結論づけているじゃないか!(怒)』

と反論してくる可能性があるので答えておくと、これは統計である。

私は今まで何百人もの東大生と出会い、接してきた。この時点でサンプル数が桁違いである。

そして無作為に抽出した十分な数のサンプルに対して「寛容である」ということが成り立つならば、その母集団(すなわち東大生全体)に対しても「寛容である」と結論づけるのは妥当である。

このようにちゃんと勉強してこれば、浅はかに断定することの恐ろしさ、ガバガバ論理に対する抵抗感というのは身についてくるものだ。

そして傲慢さは削れ、ものごとに対して自然と謙虚になることができる。

環境の問題でまともな教育が受けられなかった、などなど色々論点をずらすことももちろんできるが、今回私はあくまでも現状の社会の「イチブ」を考えてみた、ということを最後に付け加えておく。



最後までお読みいただきまして、本当にありがとうございます!


一からプログラミングを勉強し、個人ブログを開設しました!


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