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木津川に、飛行機の幻を見に行く。
大阪市大正区の船町でちょっと気になることがあって、二週連続で出かけてみました。
最初に、ニュートラムの平林駅から北に向かって歩きます。この辺りは木津川から続く運河が張り巡らされ、丸太が浮かぶ貯木場が並んでいるところ。その間を遡行するように歩いていくと巨大な新木津大橋が迫ってきました。木津川の渡し船で対岸に渡ります。
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昭和48年までこの航路をカーフェリーが運航し、乗用車からトラックまで運んでいたとか。
今日の目的地は、この橋の大正区側入口。
直径100mの3重ループの下にありました。「木津川飛行場跡」の石碑です。周囲に飛行場の跡らしきものはなく、ポツンと建っていました。
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ここからは、石碑の横にある記念碑とネットで検索した史実をもとに書いていこうと思います。木津川河口に大阪初の民間飛行場が誕生したのは、昭和4年(1929年)。近代航空技術の発展と空の貨物輸送開始に伴うものだったそうです。ドイツから輸入したユンカース・F-13型という四人乗りの旅客機にフロートを付け、水上機として運航。昭和13年には旅客数も1万人を超え、国内屈指の空港にまで成長しました。
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溶鉱炉のシーンが頭に浮かびます。
その後、離発着が増えるにつれ機体をクレーンで引き上げ滑走路に移すことの不便さ、市街地からのアクセスが悪い、周辺工場のばい煙が影響をおよぼす、地盤が脆く雨天時の使用が困難といったクレームが相次ぎ、昭和14年にその役割を終えることになりました。ちなみに、国内初のスチュワーデス(女性の客室乗務員)もこの空港から生まれたそうです。
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それが、船町を再訪させた理由でした。
最初に戻ります。なぜ2週連続で訪れるほど、船町に興味を持ったのか? それは渡し船を乗り継ぐために歩いた時、片側2車線の幅の広いまっすぐな道が妙に気になったのです。なんでこんなにも太いんだろう。土曜日だったせいかトラックも走っておらず、ひっそりとしている様がよけいに異様なことに思えました。で、帰って調べてみたら『木津川飛行場』という歴史と出合ったわけです。その中にあった「L字型の滑走路も不評だった」という記述は、そのまま木津川渡船と船町渡船を結ぶ道路に当て嵌ります。その不思議な符合っぷりにドキドキしました。
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実際の滑走路がどこにあったのか、いくら調べてもわからなかったけれど、状況からみてここが滑走路だったと言うしかありません。
いま自分が歩いている道を、かつて飛行機が次々と飛び立っていった。そう思うと、誰もいないのをいいことに両手を広げて「ビューン」と走ってみたくなりました。