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短編小説_夜の川辺で【最終章】

 「また、ここで会おう」

 僕がそう言った瞬間、彼女は微笑んだ。それはどこか満足したような、でもどこか寂しさを含んだ微笑みだった。

 「ありがとう」

 彼女の声は静かで、まるで夜の空気に溶け込んでいくようだった。

 僕は彼女を見つめた。

 「君は……ずっとこの約束を覚えていたんだね」

 彼女はゆっくりと頷いた。

 「ええ。でも、本当はずっと信じられなかったの。あなたがここに戻ってきてくれるのか、それともこの約束がただの過去の一部になってしまうのか」

 僕は小さく息を吐いた。

 「ごめん。僕は……君とのことを思い出すのが怖かったんだと思う」

 彼女は僕の目をじっと見つめていた。

 「怖かった?」

 「そうだよ。約束を思い出せば、その先にあるものも思い出してしまう。君がここに来られなかった理由を……。そうしたら、もう二度と君に会えないような気がした」

 彼女は静かに目を閉じ、それからゆっくりと開いた。

 「でも、今こうして会えたわ」

 「……ああ」

 図書館の静寂が、僕たちを包み込んでいた。

 どこか遠くで時計の針が動く音がした。それがなぜか、やけに大きく聞こえた。

 僕は再びメモを見つめた。

 「……これを、僕はいつ書いたんだろう?」

 彼女はテーブルの上のメモを指でそっとなぞった。

 「たぶん、私が事故に遭う少し前」

 「じゃあ、そのとき僕は……」

 「きっと無意識に、私と会うことを願っていたのよ」

 僕は言葉を失った。

 記憶の奥底で、ぼんやりとしたイメージが浮かぶ。

 ——図書館の静寂。外には降りしきる雨。

 ——僕は本を開きながら、考えていた。

 また、ここで会いたい。

 だから、僕はあのメモを書いた。

 でも、その直後に彼女の事故の知らせを受け、僕は全てを封じ込めたのだ。

 思い出せば、また傷つくから。

 でも、彼女はここにいる。

 それはどういうことなんだろう?

 僕は彼女を見つめた。

 「君は……今、どうしてここにいるの?」

 彼女は少し驚いたように目を瞬かせ、それから小さく微笑んだ。

 「どうして?」

 「君は事故に遭ったんだろう? それなのに、今こうして僕の前にいる」

 彼女はテーブルの上に両手を置き、静かに言った。

 「それを、あなたは受け入れられる?」

 「受け入れる?」

 彼女はまっすぐに僕を見つめた。

 「もし、私が——もうこの世界の人間じゃなかったとしたら?」

 心臓が、大きく跳ねた。

 僕は彼女の瞳を見つめた。

 彼女の姿は、確かにここにある。彼女の声も、僕に届いている。

 でも——

 本当に、彼女は生きているのか?

 「そんなこと、ないだろう」

 僕はかすれた声で言った。

 「君はここにいる。僕の目の前に、こうしている」

 彼女は微笑んだ。

 「そうね。でも、もし私が“あなたが思い出してくれたから”ここにいるのだとしたら?」

 「……思い出したから?」

 彼女は静かに頷いた。

 「あなたが私を忘れたとき、私はこの世界から消えかけていた。でも、あなたが私を思い出してくれたことで、私はここに戻ってこられたの」

 僕は息を呑んだ。

 「それは……」

 「夢みたいな話?」

 彼女は少し笑った。

 「でも、あなたは今、私を見ているでしょう?」

 僕は言葉を失った。

 彼女の瞳には、夜の川面のような静けさがあった。

 もし、彼女の言葉が本当なら——

 僕が彼女を思い出し続ける限り、彼女はここにいるのか?

 彼女はゆっくりと立ち上がった。

 「そろそろ、行かなくちゃ」

 「待って、どこへ?」

 「また、ここで会おう」

 そう言って、彼女は振り返らずに歩き出した。

 僕は立ち上がり、彼女の背中を追おうとした。

 でも、次の瞬間——

 彼女の姿は、図書館の静けさの中に、ふっと消えていた。

 僕はそこに立ち尽くした。

 まるで、最初から彼女はそこにいなかったかのように。

 でも、僕の手の中には、あのメモが残っていた。

 「また、ここで会おう」

 僕はそれをじっと見つめた。

 そして、決めた。

 またここに来る、と。

 ——彼女が本当にいたのかどうかなんて、もう関係なかった。

 彼女は、僕の中にいる。

 それが、全てだった。

 彼女が消えてしまったあと、僕はしばらくその場に立ち尽くしていた。

 静かな図書館。ページをめくる音だけが、遠くで聞こえる。まるで何事もなかったかのように、時間は淡々と流れていた。

 でも、確かに彼女はここにいた。

 僕はポケットの中に残されたメモを握りしめる。

 「また、ここで会おう」

 彼女はもういないのかもしれない。でも、この言葉がここにある限り、僕は再びここに来るだろう。

 そして、もし彼女が戻ってくるのなら——そのときは、今度こそ彼女に伝えなければならないことがある。

 僕は静かに図書館をあとにした。

 夜の空気は冷たかった。

 川沿いの道を歩く。水面には、都会のネオンが静かに揺れていた。

 僕はふと、携帯を取り出した。

 何気なくメッセージアプリを開くと、一番上に、彼女の名前はなかった。

 連絡履歴も、着信記録も、どこにも残っていない。

 まるで最初から存在しなかったかのように。

 でも、ポケットの中のメモは確かにそこにある。

 それが、全ての答えなのかもしれない。

 僕は足を止め、夜の川を見つめた。

 川の向こう岸——あの夜、彼女が立っていた場所には、誰の姿もなかった。

 ただ、静かに川が流れているだけだった。

 ——いや、本当にそうだろうか?

 目を凝らすと、遠くの街灯の下に、小さな影が揺れたような気がした。

 僕は歩き出した。

 また、ここで会おう。

 今度こそ、忘れないように。

 (終わり)

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