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「note」を愛する男に関する考察
僕の知り合いに、Noteばかり読んでいる男がいる。彼は、スマートフォンを取り出しては、長々とした考察や体験談を読み漁る。居酒屋で飲んでいるときも、電車で揺られているときも、恋人と別れた夜でさえ、彼はNoteを読んでいた。彼曰く、「これは人生を深く理解するための行為なんだ」とのことだ。
「でも、人生ってそんなに理解するものなのか?」と僕は訊いてみた。
彼はしばらく黙ったあと、ウイスキーの氷をカランと鳴らして言った。
「まあ、少なくとも俺は、Xの140文字で満足できるほど愚かじゃない」
確かに、彼の言うことも一理ある。SNSには短絡的な感情と、うっとうしいまでの自己顕示欲が渦巻いている。それに比べて、Noteには「まともそうに見える長文」がある。彼のような男にとって、それは自分の知性を慰めるのにちょうどいいのかもしれない。少なくとも、文字数の多さは思考の深さを保証しているように見えるからだ。
彼はNoteを愛していた。そして、その記事を書いている人間を「信頼に足る知的な人々」だと思っていた。僕はそういう彼に「君も書いてみたら?」と言ってみた。
彼は少し考えてから、「いや、俺は読む側の人間なんだ」と言った。
面白いことに、彼のような人々は、たいてい自分の思考を発信しようとはしない。彼らは思索を好むが、それを世に出すリスクは負わない。要するに、知的な消費者でありたいのだ。安全な距離から、他人の知性を評価し、時には「これは面白い」とか「この考察は浅い」などと批評する。なるほど、それもひとつの生き方だ。
僕はふと、「じゃあ、君はNoteでどんな記事を読んでるの?」と訊いた。
彼は少し得意げにスマートフォンの画面を見せた。
「自己啓発、ビジネスハック、エッセイ、哲学的考察とか」
「へえ、要するに人生の正解を探してるんだ」
「そういうわけじゃない。俺はただ、深く考えたいだけなんだ」
それから彼は、Noteの記事について長々と語り始めた。僕は頷きながらビールを飲んだ。なるほど、彼は本当に楽しんでいるらしい。しかし、彼の話を聞いているうちに、ふとある疑問が頭をよぎった。
「それだけたくさんの記事を読んで、結局、君の人生は何か変わったの?」
彼はグラスを持ち上げ、一口飲んだ。そして、しばらくの沈黙の後で言った。
「まあ、少なくとも、俺は今でもNoteを読んでる」
僕はそれを聞いて、ウイスキーを一気に飲み干した。結局のところ、彼にとってNoteは、人生を変えるためのものではなく、変えなくても済むためのものだったのかもしれない。