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短編小説_春風のアパートメント
春風が吹くたびに、僕のアパートの窓は勝手に開く。特にロックが壊れているわけではない。僕は何度も確認したし、修理業者に来てもらったこともある。でも、彼らは「異常なし」と言って帰っていく。
それなのに、春が来るたびに窓は開き、風が部屋の中を自由に駆け巡る。カーテンがふわりと膨らみ、デスクの上の書類が床に舞い散り、時には冷蔵庫の扉まで勝手に開いてしまう。まるで、春風がこの部屋に入り込んで遊んでいるみたいだ。
「春風の仕業ですよ」
と、隣人の佐々木さんは言った。
彼は僕と同じアパートに住んでいるが、実は何をしている人なのかよく分からない。いつも古びたジャズのレコードを聴いていて、夜中にカクテルを作りながら独り言をつぶやいている。
「春風っていうのは、ちょっと気まぐれでね、誰かの部屋に入り込むのが好きなんですよ」
「風が?」
「そう。特に、何かを待っている人の部屋には入りたがる」
「僕は何も待ってませんけど」
「本当に?」
彼はウィスキーグラスを傾けながら、にやりと笑った。
それから数日後のことだった。僕が帰宅すると、窓が開いていた。そして、部屋の中に見知らぬ女が座っていた。
「こんにちは」
彼女は僕のコーヒーカップを持ち上げ、香りをかぐと、満足げに微笑んだ。
「……誰?」
「春風」
「は?」
「だから、春風よ」
彼女はそう言うと、軽やかに立ち上がり、窓辺に歩いていった。白いワンピースの裾がふわりと揺れる。まるで、風そのものが人の形をとったみたいだった。
「毎年この部屋に入りたかったの。でも、あなたが頑固に窓を閉めるから」
「そりゃ、普通は閉めるでしょ」
「そうね。でも、今年はちゃんと開けてくれた。だから、私はこうして来られたの」
彼女は僕の顔をじっと見つめた。どこか懐かしいような、それでいて初めて会うような不思議な目だった。
「ねえ、少し散歩しない?」
気づけば、僕は彼女と並んで歩いていた。春の風が僕らの間をすり抜け、彼女の髪を優しくなでていく。街は桜が満開で、通りを吹き抜ける風が花びらを舞わせていた。
「もうすぐ行かなきゃ」
「どこへ?」
「春が終わる場所へ」
彼女はそう言って微笑んだ。
僕は何かを言いかけた。でも、その瞬間、風が強く吹いて、彼女の姿は桜の花びらと一緒に消えてしまった。
アパートに戻ると、窓は閉まっていた。そして、それから二度と、春風が勝手に窓を開けることはなかった。
佐々木さんにその話をすると、彼はグラスを揺らしながら頷いた。
「風っていうのはね、時々、人の形をして現れるんですよ」
「それで、彼女はまた来るんでしょうか?」
「さあね。あなたがまた何かを待つようになったら、来るかもしれませんね」
春風の季節が過ぎ、夏が近づく頃、僕は時折、窓を開けたまま眠るようになった。