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ちからのかぎり、そらいっぱいの、光でできたパイプオルガンを弾くがいゝ

久々に明るいニュースが舞い込んできた。
2014年以来、ヤンゴンで行われている日緬文化交流イベント「ジャパン・ミャンマー・プエドー」が、今年も開催される。

さすがに例年とは違った形のようだが、前回の盛り上がりを肌で感じているだけに、ひとまず開催に漕ぎ着けたことは素直に嬉しい。
何より、オンラインとはいえ、平原綾香さんが昨年に引き続いて出演されるというのが、個人的には大きなインパクトだ。

溢れんばかりの熱情は感じられないものの、画面越しで繰り広げられる「音楽模様」がどうなるものか、楽しみで仕方ない。

穏やかに沸き立つ熱情に包まれていると、もう1つ喜ばしい知らせが届く。
Dream Trainのある女の子が、念願だった会社に就職を決めた。心に抱く大きな目標に向かう階段を、また1つ上ったのだ。そして今日、その会社の寮に入るべく、長年住んだ施設を出る。

この1年半、ほぼ毎週末一緒に勉強してきた。
昨年度に出場した日本語スピーチコンテストで優勝を飾って以降は、いい意味で自信をもつようになり、難易度を増す課題にも粘り強く着いてきた。

ITの力で、自分が生まれ育った村のような貧しい地域に住む子どもたちにも、教育を届けたい

そう願う彼女を後押しすべく、デジタル機器とオンライン教材をフル活用し、コロナ禍にあっても途切れることなく学び続けた。
日本語の勉強(というより読解力強化)として、日本の私立中学の入試現代文に挑んだり、ここ最近は「スタディ・サプリ」にもチャレンジし始めていた。私にとっても、本人と議論しながら教材を選んだり、繰り出される質問によって新たな着想が生まれる瞬間は、とても刺激的だった。

その祝祭的な時間も、いよいよ幕を閉じる。
学びに終わりがない以上、ハッピーエンドもバッドエンドもないが、大きな一区切りだ。

新たな出発の門出にあたり、ある詩が自然と思い返された。

おまへのバスの三連音が
どんなぐあひに鳴ってゐたかを
おそらくおまへはわかってゐまい
その純朴さ希みに充ちたたのしさは
ほとんどおれを草葉のやうに顫はせた
もしもおまへがそれらの音の特性や
立派な無数の順列を
はっきり知って自由にいつでも使へるならば
おまへは辛くてそしてかゞやく天の仕事もするだらう
泰西著名の楽人たちが
幼齢弦や鍵器をとって
すでに一家をなしたがやうに
おまへはそのころ
この国にある皮革の鼓器と
竹でつくった管
とをとった
けれどもいまごろちゃうどおまへの年ごろで
おまへの素質と力をもってゐるものは
町と村との一万人のなかになら
おそらく五人はあるだらう
それらのひとのどの人もまたどのひとも
五年のあひだにそれを大抵無くすのだ
生活のためにけづられたり
自分でそれをなくすのだ
すべての才や力や材といふものは
ひとにとゞまるものでない
ひとさへひとにとゞまらぬ
云はなかったが、
おれは四月はもう学校に居ないのだ
恐らく暗くけはしいみちをあるくだらう
そのあとでおまへのいまのちからがにぶり
きれいな音の正しい調子とその明るさを失って
ふたたび回復できないならば
おれはおまへをもう見ない

なぜならおれは
すこしぐらゐの仕事ができて
そいつに腰をかけてるやうな
そんな多数をいちばんいやにおもふのだ

もしもおまへが
よくきいてくれ
ひとりのやさしい娘をおもふやうになるそのとき
おまへに無数の影と光の像があらはれる
おまへはそれを音にするのだ
みんなが町で暮したり
一日あそんでゐるときに
おまへはひとりであの石原の草を刈る
そのさびしさでおまへは音をつくるのだ
多くの侮辱や窮乏の
それらを噛んで歌ふのだ
もしも楽器がなかったら
いゝかおまへはおれの弟子なのだ
ちからのかぎり
そらいっぱいの
光でできたパイプオルガンを弾くがいゝ

これは、宮沢賢治の詩集『春と修羅』に収録されている『告別』という詩である。
故郷・岩手県の花巻農学校で教鞭をとっていた宮沢賢治が、百姓としての生き方を突き詰めるべくその職を辞する際、惜別の言葉として教え子に送ったものだ。

この詩に込められているのは、“孤独の中で徹底的に技を磨け”というメッセージである。
 
幼いときは、誰しもが光り輝く才能を持っている。しかしほとんどの人は、それらを生活の中でいつの間にか無くしてしまう。
もしもお前がそうなったら、もう目をかけることはない。なぜなら私は、少しくらいの仕事で安易に満足してしまう人間は嫌いだからだ。

周りが安逸を貪っている時に、1人静寂の中で技を磨け。たとえ侮辱や冷笑を浴びようとも、葛藤と孤独を背負いながら、自らを鍛え続けよ。そうすれば、「音の特性」や「立派な音の順列」を自由に使いこなせるようになり、「かゞやく天の仕事」もできるだろう。

そう、お前は私の弟子なのだ。いつかきっと、「そらいっぱいの、光でできたパイプオルガン」を弾けるようになるはずだ。

この詩と出会ったのは高校時代だが、長らく理解できずにいた。
大学の卒業が間近に迫り、心に吹く一抹の寂しさと、社会人として新天地へ踏み出す希望が入り混じる心境の中、偶然手に取った本のおかげで、ようやくその意味をつかむことが叶った。

読了の瞬間に走った「雷撃」は、今も鮮明に覚えている。その後も、折に触れて口にしては、都度拳を握ってきた。今やこの詩は、私の人生観そのものになっている。

私は宮沢賢治に到底及ばないし、師を気取るつもりもまったくないが、思い自体は同じだ。
彼女がこれから経験するであろう、多くの出会いと感情の激流を泳ぎながら、その胸に抱く「かゞやく天の仕事」を目指して、元気にステップアップしていくことをひたすらに願う。そして私はいつでも、その一歩先を歩いてみせる。

静けさと涼しさに包まれた夜、そんな思いに包まれた。

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