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シカゴエモリバイバル入門:パート1(和訳)

はじめに

 アメリカの中西部に位置するシカゴは古くから音楽の街として知られています。
 クラシックやジャズ、ファンクといったオーセンティックなジャンルはもちろん、インディペンデントなジャンルにおいても例外ではなく、文字通り "シカゴ音響派" と呼ばれるポストロックのシーンを牽引した Tortoise や Sea And Cakes が活動した土地でもあります。

 90年代におけるエモシーン、所謂 "Second Wave Emo" においてシカゴが重要な意味を持つ地域であったことを示すには、主に活動していたバンドをいくつかリストアップするだけで十分事足りるでしょう。Cap'n Jazz、Braid、American Football、The Promise Ring、その他諸々。

 2000年代以降、My Chemical Romance や (奇しくもシカゴ出身である) Fall Out Boy などの "商業エモ" の時代を経て、エモリバイバル、"Fourth Wave Emo" の時代が到来します。この時代のエモにとっての "聖地" はAlgernon Cadwallader や Snowing、Everyone Everywhere が活動したフィラデルフィアに取って代わられたように思われますが、シカゴにもまた重要な意味を持つシーンが形成されていくことになります。

 このエモリバイバル期のシカゴに私はとても惹かれてしまいます。私がエモリバイバルに分類されるバンドに触れ初めた2012年当時、Algernon Cadwallader になんとなくハマれなかった(今ではお気に入りのバンドの一つです)代わりに CSTVT の熱烈なファンになり、その他にも多くのシカゴのエモバンドのディグに大学時代の多くの時間を費やしました。あれから10年近くが経過し、今一度シカゴのエモリバイバルについて日本語で取りまとめたいと思い、この記事を書き始めました。

 しかし、シカゴのエモリバイバルのシーンを詳細に紐解くために、私がエモバンドのディスコグラフィーを並べてあれこれ考えたふりをしてみてもさほど意味が無いことは容易に想像がつきます。何故なら私は日本に住んでおり、当時のシカゴの状況を全く知らないからです。私の好きなバンドをいくつかピックアップして、それらのルーツについて思いを巡らせることはひとりの音楽好きとして至福のひと時ですが、その結果として出来上がるものは私の誇大な妄想に基づくバンドの相関図です。

 やはり当時のシーンをよく知る人から学ぶべきでしょう。そう考えた私は大きくなりすぎた妄想を一時中断し、ある記事を読み始めました。Hugo Reyes 氏が2021年に執筆した『An Intro to Chicago Emo Revival』です。彼は The Alternative のコントリビューターで『Step 2 Rhythm』というコラムの著者です。同時にシカゴの音楽シーンについても精通しており、そうした記事も執筆しています。

 この記事は4部構成で、2000年代の前半から2021年までのシカゴのエモシーンについて書かれています。あまり得意ではない英語に四苦八苦しながらこの記事を読み終えた後、私の目的はこの記事を翻訳するのみで事足りることは明白でした。私のディスクレビューはその後で全く問題がありません。

 Hugo Reyes 氏に記事の翻訳をオンラインで公開することの了承を得た私は、これから第1部の翻訳に取り掛かるところです。彼の快い承諾と、この素晴らしい記事を執筆されたことに感謝します。明らかに DeepL 翻訳の方が優れている箇所がしばしばある程度には拙い翻訳ですが、この記事を日本の "エモリスナー" と共有できることをとても楽しみにしています。


An Intro to Chicago Emo Revival: Part One

原文: https://hugoreyes-36858.medium.com/an-intro-to-chicago-emo-revival-part-one-5960b4556dd8

リバイバル前夜 (2004–2007)

 エモリバイバル全盛期に飛び込む前に、少し時代を遡る必要があるでしょう。2004年はエモというジャンルとシカゴのシーンにとってとても興味深い時期にあたります。この年はサードウェーブエモとその商業的なブームが始まってから既に数年が経過していました。例えば Fall Out Boy は『Take This To Your Grave』を前年にリリースしたばかりでした。Fireside Bowl *1 *2 はただのボーリング場と化してしまっており、それはシカゴという街における一つの時代の終焉を示していました。

 しかしそんなシカゴにも依然としてDIYをルーツに持つバンドが存在し、90年代エモと呼ばれるようなものからさほど遠くない音楽を制作していました。そうしたバンドにはあまり注目がされていないので、こうした音楽がアンダーグラウンドへと回帰する時期について触れる必要があります。

 この頃にはまだトゥインクルなバンドは登場しません。Cap'n Jazz よりは Hot Water Music や Small Brown Bike などを意識したようなバンドが多く、結局のところポスト・ハードコアというまとまりのないジャンルの下に収斂していくのです。

The Blonde Alibi

 この旅を、まずはオンラインに情報がほぼ皆無に近いとあるバンドから始めることにしましょう。彼らが存在した証拠は2005年に自主制作された唯一の EP しかありません。Small Brown Bike からの影響があることは即座に分かりますが、そのことは The Blonde Alibi がただのカーボンコピーであることを決して意味しません。この記事を書いている間にも、すぐにソファーから飛び降りたくなるようなエネルギーに溢れています。このバンドがスクリーモにルーツを持ち、それはエモリバイバルに絶えず現れる共通項である、という私の信念を見せつけてくれるほどにアクティブなのです。


The Black Print

 The Black Print の活動時期は私が勝手に命名した "リバイバル前夜" の期間と完全に被るわけではありませんが、そのリストから除外するにはあまりにも惜しいくらいフィットしています。The Blonde Alibi と同様に、The Black Print は決して90年代のシーンから出てきた訳ではありませんが、サウンドは90年代そのものです。The Hot Water Music との類似は明らかですが、私にとっては最高です。*3 Caution 信仰のポップパンクファンを怖がらせて追い払い、少し泥臭くしたようなサウンドです。

Oceans (2005–2009)

 Oceans が唯一の音源をリリースしたのは2009年のことですが、それよりも前の時期に意味があります。他の多くのバンドがハードコアやスクリーモのルーツを誇示する中、Oceans のそれは紛れもなくインディーロックでした。2000年代初期を席巻したポストロックに傾倒しており、時折入るボーカルパートに中断される長く引き延ばされたサウンドスケープを作り出しています。それは上手くいっておらず、曲の長さと引き換えに生み出される強烈なカタルシスの瞬間を失ってしまっています。Boy Detective は、ドラマーの Nick Wakim がその後彼の別のバンドである CSTVT で成功するであろうことを見出せる傑作の一つです。

MANS. (2006–2008)

 私のリサーチの中でも MANS. は突出して奇特な存在です。彼らのリリースは他と比べて傑出したものでも無いように思われます。彼らのジャンルタグはめちゃくちゃで、「決心しろ (make up your mind)」というタグには笑わせられました。Summer Tour 2006 + 2007 という2枚をリリースした後解散し、追加で1年間だけ再結成しました。MANS. はこの時期にいくつか現れたスクリーモバンドの一つではありますが、彼らは後の La Dispute と Grown Ups. のメンバーを擁する Lion Of The North とスプリットをリリースしており、注目に値します。

Lautrec (2007–2010)

 ここでは私のリサーチにおける情報が少し信頼に欠けてしまうことを認めなければなりません。2007年頃は現在 Twitter や Instagram で行われているようなバンドの宣伝やツアーブッキングなどを主に MySpace で行っていた時期でした。2019年の3月に MySpace にアップロードされていた2016年以前の楽曲が全て削除されてしまいました。それはこのサイトにとっての死の宣告であり、Wayback Machine での幾ばくも無いキャプチャを除けば、結果として音楽の一つの時代を丸ごと失うことになりました。

 私の分かる範囲では、2007年は多くのバンドが表面化し、翌年に向けた下地を作り始めたタイミングでした。2007年のデモから始まった Lautrec は、2つの異なるジャンルが同居していました。彼らをスクリーモと呼ぶことに問題はないでしょう。彼らは先述のバンドたちと極めて類似しており、ポスト・ハードコアという曖昧なジャンルに収まっています。これらの区別はほどんどの人にとってどうでもよく、意味論の練習台でしかありません。しかしこの記事の意図としては、Lautrec はエモと密接であったという事を言いたかったのです。彼らの他の同世代はエモシーンに属していました。(Lautrec の) メンバーの1人は第2部で登場する Coping のメンバーですらあったのです。


 誤訳や typo を見つけられた際にはこちらの note か @zackey878 までご連絡頂けると助かります。


*1 Fireside Bowl はシカゴのボーリング場兼ヴェニューで、ライブステージを併設していた。90年代には特にDIYをルーツに持つバンドがよくライブをしていたようで、Youtube で「Fireside Bowl」と検索すると当時のライブ映像がヒットするのでオススメ。

*2 完全に蛇足だが NUMBER GIRL のライブ映像もあった。アメリカツアーしとったんか。。

*3 原文では「but it still tracks for me.」なのですが、上手い訳し方が分かりませんでした。助けて!


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