絶望に見栄を張る
もうすぐ25歳になる。夏生まれの自分のことは好きだけど、もうここ三年は、誕生日がくるたびに焦燥感に襲われている気がする。
自分が生きてきた25年を振り返って思うのは、やっぱり私はこれからも変われずに生きてしまうだろうなということだった。
周りと比べたとき、私は自分の年齢に対して過敏すぎるところがある。22歳くらいのときから、もう23、もう24、という感じで捉えてばかりいた。「まだ」と言ってもいいのに、「もう」。変われないまま、ただ年をとっていくだけの、なんにもできない大人として生きている事実が恐ろしいからなんだろうか?
大学四年生のとき、私は全部のあたりまえがわからなくなった。わからなくて、できなくなった。あたりまえと称されるすべてのことが、自分とは遠いものになってしまった。
普通に就職すること。正社員ではたらくこと。 貯金があること。急な誘いに普通に行けるくらいには金銭的余裕があること。お腹が減ること。ごはんをきちんと食べること。わけもなく泣いたり、天井を見つめてぼーっとしたりしないこと。素敵な記憶の余韻で頑張ること。
私は、ひとつも普通にこなせなかった。かすりもしなかった。私ってもうダメなんだな、と漠然と思っていた。
普通に就職ができなかったことは、もう周りの人に受け入れてもらったことなのに、私はまだ、あの頃の私を受け入れてあげられない。
頑張っていた、と胸を張って言えない。頑張る気力すら、最初から持てなかった。
自分の長所が見当たらなかった。無理やり絞り出してエントリーシートに書いたのは「一度決めたことは最後までやり遂げる」「責任感がある」だとかで、思い出すだけでも、笑わせるなよ、と自分をぶん殴りたくなる。
大学四年生の夏。東京で行われた二次面接のとき、私は鮮明に、自分の心が折れる音を聞いた。
集団面接で、その場にいた私以外の全員が敵に見えた。敵、というか、違う星の人。あー、この人たちは私と違うんだなって。私だけが、同じ土俵にも上がれてなかったんだなって、思った。
家に帰って、母の前で泣いた。あんまり記憶は定かじゃないけれど、母の励ましに対して、もうやめたい、と言ったような気がする。
もうやめたかった。自分がダメな人間であることと向き合いたくなかった。普通に生きられない自分なら、いっそ死んでしまいたかった。
あのとき逃げたのは正解だったのか?と、定期的に思う。普通じゃない私を、あからさまに弱って痩せて行く私を、母は受け入れるしかできなかったんじゃないか。優しさへの甘えだったんじゃないか。
大学を卒業して、正社員じゃなくても仕事をやらないと、と新しく入ったアパレルショップ。今は保険に入って働いているけど、それももうこの秋でやめる。自分に役割が課されるたび、こんな責任は背負えない、と思う。なにより、刺激がなくてつまらなかった。こんな日々が毎日続くだけでどんどん大人になってゆくのが嫌だった。
辞める辞めるといいながら二年半も働いた。やめた後のことは考えてない。ゆっくり本を読んだり、朝ごはんを作ったりしたいけれど、できるかどうかはわからない。働きたくないくせに、働いていないと不安になる。自分が普通である証明ばかり探している気がする。やだな、やだな、こんな25歳やだなって、また振り出し。仕事を探さないと、とおもうだけで、泣きそうになる。
結婚したいだとか、誰かと一緒にいたいだとか、そういう特別強い思いはないけど、一人で死んでいくのは嫌だな〜と思う。でも、家族のことは好きだけど一緒に暮らしたくはないわけで、となるとやっぱり私は死んでゆくためのパートナーを見つけないといけないなあ。
私が思い描く普通は、本当に普通なのかな。普通とか普通じゃないとか、そういうことはべつにないのに、私が勝手に決めた普通のラインに辿り着けない自分のことを考えて落ち込むのはもうやめたい。やめれないから、こんな情けない25歳が爆誕しているわけですが。ダハハ、おもんねー❗️←本当に
9月、ハンブレとバクナンの対バンがある。これまでにないくらい楽しみで、私ってまだこんなに何かにワクワクして踊ったりとかしちゃうんだーって、不思議な感じ。幼馴染と一緒に旅行に行くのは、二十年目にして初めてのこと。喧嘩とかギスったりとかしないといいな。旅行ってどうしても人の不一致部分に焦点当てられがちだから、それがちょっと怖い。一人に慣れていると、人といる時に突然押さえきれない我が出てしまうときがある。一人の時は誰にも責められないし、誰にも迷惑をかけないけど、対人になるとそうもいかないから気をつけないと。ここで我慢できなくて大切な人たちを失いたくなどないわけですし。移動が別だからそれが救いかもしれない。音楽を酸素にして生きているから、聴けない時間が続くとそれがストレスだったりもするのです。
対バンが終わると、10月はいよいよ武道館。大好きなバンドが武道館を埋めるところを、この目に焼き付けてから死んでいきたい。だけど今度は11月にまた対バンがあって、これは大好きなフォロワーの方と初めて連番させていただく予定になっているから、それも楽しんだあとに静かに死にたい。
死にたいなあ、消えたいなあ。ずっとずっと、自分の未来がまっくらで、何にも見えない。なのに、無駄に長生きしているのはなんとなく想像がついたりして、皮肉ですわそんなん、と思ってしまう。
こんなんで、ずっと生きていけるんだろうか? この先もっと歳を重ねたときに、情けない大人のままでいいんだろうか? 誰かに聞いたとてきっとだれも肯定はしてくれないと思う。だってそんなの、じゃあ責任とってよねって言いたくなる。かと言って「そうだねー君はもっと危機感を持って生きた方がいいかもねー」とか言われても、危うく拳が出てしまうかもしれないし。
自問自答って本当にこれなんだ。私は、私にも他人にも出せない答えを、ずっと探している。探し切るまでは生きてしまうんだろうし、結局答えが見つからないまま死んでしまうような気もする。
25歳は若いらしい。一般的に、私はまだ、何にでもなれるらしい。普通に生きていられる、一般の、平均の思考でそう思えるなら、私はきっとまだ大丈夫だ。そう思いたい、思うしかない、こればっかりは己の思考を捨てたほうがいいのかも。
この間、皮膚科に行った。私は昔から皮膚が弱かったり、鼻が弱かったりで、健康でいるためのお金が人よりかかっている気がする。採血するごとに3500円。勝手に採血したのはそっちなのにと思いながら、私のギリ健康な体を保たせてくれてありがとうねーとも思う。
お金がない、余裕もない。こんなままで、生きていても仕方がないと思う。強く強く思う。誰になんと言われようと、そういう気持ちを捨て切ることができない。けれども、死にたがるわりに余生だけはまだまだあるっぽいので、もう少しだけ、人生ちゃんと満足したと見栄を張れるくらいには、好きに生きてみようと思います。
少し早いけど、誕生日おめでとう私。25年も生きてこれたこと、あなたはとても尊いよ。あなたの住む星から見える空は綺麗だから大丈夫! 誇れ!
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