辞職と離党のご報告
私、早川美穂は、活動の継続に限界を感じたため、1月17日、東大和市議会議長へ辞表を提出しました。また同日、日本共産党へ離党届を提出しました。皆さまの負託にお応えできず申し訳ありません。
なお今まで私は党機関からSNSでの発信を止められていました。よって遅ればせながら、日本共産党東大和市議団との関わりを振り返りながら、辞職と離党を決心するまでの経緯を以下にご報告します。長文ご容赦ください。
上林議員・尾崎議員との関わりを入党時から振り返って
私は、2022年に転入した東大和で、夏の参院選の選挙ボランティアを通じて上林議員と出会いました。折々の交流を経て2023年2月に上林議員から熱烈な勧誘ののち、丸1日の説得を受け「全力で支えるから一緒にやろう」の言葉を信じ、日本共産党への入党と市議選への立候補を決意しました。
※なお「非党員への立候補の打診は本来NG、内密に」と念押しされました
上林議員の他には党内にも地域にもつながりは全くない状況でのスタートでしたが、自選対の皆さんと2か月を全力で戦い、当選させて頂きました。
無事に3人当選(尾崎議員1位/早川5位/上林議員10位)が叶ったことはとても嬉しかったのですが、上林議員はその日から急に態度を変え、団会議において私を無視し始めました。
会議のたび一人だけ「居ないもの」として扱われ、尾崎議員に訴えても取り合って頂けず、私は5月末に上林議員へ「党へ誘ってくれた方からこんな風にされるのは悲しい」と訴えましたが、上林議員は「あなたは求めすぎる」「傷ついた、トラウマになった」と怒り、のちに早川の辞職を地区委員会に要求※しました。※地区委はこれを「非常に問題ある行為」と評しました
その後も上林議員の無視は続き、6月議会以降は、私は上林議員と接することを禁じられ、団会議は各々が尾崎議員と行いました。私は何が起きているのかもわからないまま、支えを失いました。初めての議会活動や党活動の不安を相談できる人はごく少なく、孤独感で腹痛や不眠が起き、体重も減少し続ける中での活動はつらいものでした。
当時の東大和では森田元議員の退任にともない共産党の候補者は尾崎議員・上林議員の2人となる予定でしたが、上林議員は3人保持の道を誰よりも粘り強く求め続けて候補者探しに奔走されていたと伺っています。ご家庭の行事、さらに3月議会の準備、加えて選挙のストレスも相当大きかったと後に伺いました。これらの最後に全くの新人である私をサポートいただく負荷が加わってしまった点については、大変申し訳なく思います。
しかし実際ご一緒させて頂いたのは選挙戦の初期のみであり、以降は各自の選対で戦っていたため上林議員・尾崎議員との接点は開票日まで殆どありませんでした。これは支部の方からも証言を頂いております。
上林議員は7月にT医師から「あなたは被害者」「早川は加害者で人格障害の疑いがある」との診立てと併せてPTSDの診断を受けたとのことですが、私はこの医師とは一度も面識がありません。一方的に「人格障害」と見なされたことにも理不尽さを感じますが、上林議員もそこに信憑性を見出し(これはあくまで推測の域を出ませんが)「諸々のストレスは早川を除けば全て解決する」かのようなお考えに至られたのならば、とても悲しく思います。
ここで併せて、本件についての党機関の対応への違和感も申し上げます。
選挙中から数か月の間、各支部や地区委員会は上林議員の話のみを聞き、私への聞き取りは全くなく、「被害」を訴える上林議員の要求通り、尾崎議員と地区委員長は私に9月議会の全休を命じました。新人の私は(この件で健康を害しており栄養失調と適応障害の診断書は出ていましたが出席の意思はありました)逆らえず全休させられ、他の公務や行事も上林議員が出席するものは全休、または行動時間の大幅な制限を受けました。
新人の私にとって、3期目の上林議員・5期目の尾崎議員・地区委員会からの命令は絶対であり、逆らうことは出来ませんでした。
以降の議会で私は上林議員・尾崎議員・地区委員会・都委員会から「調整」と称して欠席を繰り返し強要され、半分以上の日程を休まされました。具体的には3対1で囲まれ2時間以上の説得、それを断ると電話やzoomで数時間の説得です。地区委・都委からはその後「調整」は誤りだったと謝罪を頂きましたが、この経験は新人の私にとって非常に恐ろしいものでした。
上林議員は毎回採決を取る最終日への出席を特に強く希望しており、私は毎回「彼女が『この日に休むと症状が悪化するかも』と言っている、最悪の事態は避けたい、応じてくれ」と言い聞かされ、最終日を休まされました。
9月12月3月の議会最終日において私の出席が叶わず共産党が2票となったことで、PFAS汚染対策・ラファ停戦を求める意見書など、共産党の発議を含む3つもの議案が、可否同数ののち議長決裁で否決となりました。これは東大和の市政にとって大きな損失であり、私は議会のたび「共産党の3票を生かし公人として責任を果たしたい、『調整』はやめて欲しい」と訴えましたが、却下されました。私は毎回、自宅で中継を見ながら、何も出来ない無念さと無力感に打ちのめされていました。
(そして私が組織の構造もわからず、地域や支部に知人もなく誰にも悩みを言えずにいた時期、上林議員は周囲の方々に日々「自分は被害者だ」と訴え、私についての事実と異なる情報(後述)を広めていたと伺っています)
地区委員会・都委員会が私への聞き取りを始めたのは2023年秋から、中央委員会は冬からです。市内の各支部の方々は市議選以降「上林議員・尾崎議員の主張のみ」聞いていた方が大半のため、地区委が後に「本件は加害被害の関係ではない」と発信しても、耳を傾けて頂けない状況が続いています。
市議団では、2023年11月以降、定期的な団会議はなくなり、学習機会は失われました。尾崎議員は離党前後まで私の議会準備等をサポートしては下さいましたが、その一方で私に市議団LINEや20区議員LINEグループでの発信を禁じ、のちに赤旗の庁内配達も取り上げました。私は孤立しました。
上林議員と尾崎議員は、本件発生時から「早川は加害者だ」と支部や支持者へ広め続け、後に私に辞職を求めました。尾崎議員は市議団長という立場にありましたが、たとえばある公務で私を欠席させる際に「所用」でなく「病欠」と申請することで前後の行事への出席も妨げる、私が加療不要となった状況でも「調整」のために診断書を要求する等、一貫して上林議員の側に立った言動を続けました。2024年1月には直接「俺があなたなら辞めるね」と脅され、恐怖を覚えました。
尾崎議員は毎議会の「調整」の中で機関への信頼を失ったとして2024年5月に離党届を提出しましたが、その中で彼は私を「早川は失敗」「パーソナル障害」「グレーゾーン」等と表現しました。
また同年5月、私が6月議会は全日程出席する旨を伝えると、上林議員は議会初日に尾崎議員を通じて全議員に「早川が原因のPTSDで休む」旨の文書を配布しました。これは都委員会の完全な承認を得たものではなく、党機関から指示されていた「早川の同意を得ること」も無視したものでした。
また尾崎議員と関わりの深い西川洋一支部長(元東大和市議/7期)は上記の離党届や文書を複数の支部に文脈の説明なく共有し、私の出席した支部会議で皆へ音読させました。西川支部長は市議選の前も後も私に対して度重なるパワハラやセクハラ二次加害を行い続けたため、支部での活動は非常に大きな苦痛を伴いました。
2024年8月に尾崎議員の離党届が承認されると、上林議員は尾崎議員と新会派「共につくる東大和」を結成しました。私は共産党会派としては一人となりましたが、東大和市議会の規定では一人会派は認められないため、東大和市議会から共産党市議団は消滅しました。
なお6月議会初日の配布文書と同じく、尾崎議員の離党・離党届・上林議員との別会派結成に関して、私は(同じ市議団に所属しながら)両名や党から事前に何の共有も意思確認等の機会も頂くことはありませんでした。
9月議会において、私は(別会派とはいえ)共産党内では意見一致をはかろうと事前に尾崎議員へ議案賛否を共有しましたが「共に~」は異なる賛否を表明し、「共産党議員の間で政策への不一致が生じる」事態となりました。
また、「共に~」発議のシルバーパス適用拡大を求める意見書については、尾崎議員に「早川の名前を見るだけで上林議員の具合が悪くなる」「今後、全議員署名以外は一緒に意見書は出せない」として署名を拒否されました。
しかし尾崎議員の「政治的主張は変わらない」との発言を踏まえれば、これは実質「今後『共に~』が出す(共産党と同路線の)訴えには『共産党』の名前を残させない」ことに等しく、共闘を拒否するものであり、今後の議会活動に希望を見出すことが難しくなりました。
「共に~」の上記の行動は(共産党議員を含みながら)共産党の議会活動を阻みかねず、党規約に照らして「分派活動」に該当するのではないかと危惧し、私は党機関へその旨の意見を提出しました。
しかし中央委員会は「党議員で対応が分かれることは好ましいことではない」、都委員会は「別会派は正常な状態ではない」と回答しながらも、上林議員の病状を理由として、別会派を「やむを得ない」として消極的に追認し続けました。この点についても非常に遺憾に思います。
なお、私はここまでの内容については昨年9月時点で公開したい旨を党機関へ伝えていましたが、地区委員会・都委員会の指示によって発信を止められていました。(本件の解決をめざし多くの党員の方にご尽力頂いた身で申し上げるのは心苦しいことですが)このことを含め、市議選時より現在に至るまでの党機関による対応、また地区委員会・都委員会の方々から対面や電話やzoomで幾度となく繰り返された議会欠席の強要、支部内におけるパワハラ・セクハラの放置、等によって党機関を信頼することが困難となり、離党を決意するに至った次第です。
上記と併せて、上林議員による誤情報の拡散についても申し上げます。
上林議員は本件発生時より、A4判60ページに渡る私への批判文書を始めとしてご自身の意見を周囲に何度も拡散していますが、私はいずれも直接の閲覧を許されていません。しかし党機関を通じて間接的に確認しただけでも、事実と異なる記述や中傷に近い表現がいくつも見受けられました。
また文書内にて、武蔵村山市の内野なおき共産党議員が私を「典型的な人格障害」「病気」「治療の必要あり」と評した記述があったことも確認しました。かつてT医師が上林議員の主張のみを元に私を「人格障害の疑い」と「診断」した事も驚きでしたが(医療者の姿勢として疑問を感じざるを得ません)、内野議員の「人格障害」発言、またその記述に「内野議員が精神科での作業療法士の経験がある旨」を付記し「医療者の診断」かのように周囲に広めた上林議員の行為、どちらも非常に恐ろしく、傷つきました。
上林議員は、私のことを「共産党・選挙・東大和のいずれにも経験が浅い」と知った上で「全力でサポートする」と言って入党と立候補を望みました。しかしそれを信じた私がいざサポートを依頼すると、それを「常識を超えた過大な要求」として扱い、後に全てのサポートを放棄しました。文書内では「依存と執着」「赤ちゃんみたい」「サンドバッグにされた」等の文言を確認しています。私の見えない場所でこのような内容を流布していたことは、議員としても、党員としても、非常に無責任かつ不誠実であると感じます。
また、私とのLINE履歴を根拠に「感情的な負荷をかけられた」旨の被害を訴えていますが、「早川の発言のみ恣意的に切り取り大量に無断使用」している一方で「私が双方の公平なLINE履歴を提供すること」は固く禁じており、私は情報の偏りを訂正できない状況です。
60ページ文書では他にも複数の方の「証言」の記述があり、発言元の方へ事実確認をしたところ、掲載には事前確認もなく歪曲や誇張も含まれており、また、かつて私が彼女の「何でも話してね」という言葉を信じて打ち明けたプライベートな情報をもって私を人格的に貶める記述もあることを確認しました。
上林議員がこうした発信を繰り返し続ける限り、事実と異なる情報はこのまま地域に定着し、さらに増幅されて行く可能性が高く、東大和での活動は困難と感じます。
上林議員の文書では「早川がいかに議員として未熟で不適切か」という点を強調して書かれた項目も多いと聞いていますが、かつて私に「知識は後から学べばいい」「一緒に考えましょう」と仰って入党と立候補を依頼したのは、他ならぬ上林議員ご本人です。私への教育や支援をいっさい放棄しておきながら、私の議会や会合でのミスを誇張して広めていることは本当に悲しく、虚しい気持ちになります。
それらの影響かは不明ですが、議会傍聴・支部会議・街宣の場、また非通知電話などで様々な方から事あるごとに「議会を休め」「共につくる東大和の討論があるなら早川の討論は不要だから休め」等と言われ続け、自宅には(住所を知る人は入党推薦者である上林議員を含めて党内でも数名ですが)彼女の支持者を名乗る党員から「嘘つき」「被害者面」「金の為、傅かれたい為に議員職にしがみついている」等と中傷する文書が複数回届き、精神的な苦痛は耐え難いものとなりました。
どうにか議員活動や党活動を続けながらも、本件が発生してから今日まで、心が休まる日は1日もありませんでした。入党と立候補を決めたのは政治への関心や党の政策への共感もありますが、ひとえに上林議員の「一緒にやってほしい」との言葉に「この人の力になれたら」と思ったからです。
しかしその上林議員ご本人から長期に渡り数々の理不尽な行為を受け、事実と異なる情報を流され続け、業務にも集中できず、十分な栄養や睡眠をとれず、日常生活に支障を来たし、今は深刻な鬱状態に陥っています。
私は折り悪しく昨年10月末に新型コロナウイルス感染症に罹り、現在後遺症の診断を受け、療養させて頂いております。しかし体調回復の見通しが立たず、心身ともに疲労が限界に達しました。
よって誠に遺憾ではありますが、議員としての活動をこれ以上継続することは困難という判断に至った次第です。市民の皆さまから頂いた負託にお応えすることが出来ず、本当に申し訳ございません。
短い間ではありましたが、多くの方々に支えて頂き、深く感謝いたします。ありがとうございました。
2025年1月17日 早川美穂