夢女子は何故「オリキャラ」を投入するのか
私は女オタクです。Twitterとnoteでは割とまじめな原作厨として色々書いていますが、腐女子と夢女子の両方こじらせていて、頭の中はアレな妄想でいっぱいです。
私のように両方の属性がある人間はおそらく少数派です。基本的に腐女子と夢女子は相容れない存在で、Twitterでは住み分けしている人の方が多い印象。もし両方こじらせててもアカウント分けてるという人は多いのではと思います。
実は先日、「腐女子の友人から『原作のキャラで完成されているのに、何故オリキャラをわざわざ投入するのか』という疑問を投げられた」という夢女子の方のツイートを見ました。
私は夢女子としては何故オリキャラを投入したいと思うのか考えたことがなかった……というか息をするように夢小説を書いていました。せっかく腐女子と夢女子どちらもこじらせているので、今回改めて言語化してみることにしました。
念のため、ここに書かれているのはあくまで「ひとりの女オタクのごく個人的な意見・考察」であり、すべての夢女子の総意ではないことをご理解いただいた上でお読みください。もし私の考察が、異なる嗜好の理解の一助となれば幸いです。
「夢女子」と「夢小説」とは
このnoteはオタクじゃない人も読むと思うので念のため説明します。
(知ってる人は読み飛ばしてOKなセクションです)
夢女子とは、自分or自分が考えたオリジナルキャラクターとの恋愛や交流をする二次創作を楽しむタイプのオタクのことです。詳しくはみんな大好きニコニコ大百科がわかりやすかったのでリンク貼っとくよ。(メアリー・スーの事とかも書いてある。しゅごい)
ちなみに、夢男子もいます。ですが、すみません。ここでは「夢女子」に表記を統一させてください。
そして、この夢女子の二次創作のひとつに「夢小説」というのがあります。
夢小説では、原作にいない書き手のオリジナルキャラクターが登場します。広義では「オリジナルキャラ(以下オリキャラ)小説」となるのですが、大きな特徴は読み手側がオリキャラの名前を任意に決定できるということです。
この記事における夢小説の定義
夢小説はオリキャラ小説との線引きがむずかしいので、ここで定義を明確にしておきます。
夢小説とは「名前変換機能を使用した小説」あるいは「オリキャラに名前がない小説」という定義で話を進めます。
夢小説におけるオリキャラ=夢主人公(以下夢主)は、ゲームにおける名前を変更可能なプレイヤーキャラのような位置づけ。
書き手が名前を固定し、オリキャラとして確固たるペルソナを与えた「オリキャラ小説」は外野からすればそれも夢と混同されたりしますが、厳密には別物です。
ちなみに「名前変換機能」を使うには、サイトを作るときに自分で実装するか、名前変換機能を搭載したプラットフォームで小説を公開するかの二択になります。ゆえに、名前変換非対応のpixivなどでは、キャラクターに名前を呼ばせないことでストーリーを成立させている夢小説もあります。
そして夢主のキャラ付けは、ゲームのプレイアブルキャラのようにあまり特徴のない場合もあれば、書き手の性癖が詰まっていたりと様々です。もはや名前変換ができるだけのオリキャラ小説では?というものもありますが、書き手が夢だと言えば夢だし、オリキャラだと言えばオリキャラだと私は思っています。ついでに互いに定義を押し付け合わなければ、読み手がどう読むかも自由だと思っています。
多くは男女の恋愛が題材ですが、BL夢や百合夢、恋愛要素なしの友情夢やオールキャラ夢などもあります。なんなら夢主が人間ですらないものも。
夢女子は何故「オリキャラ」を投入するのか
さて本題の「夢女子が何故オリキャラを入れるのか理解できない」という断絶ですが、この断絶が起こるのは「物語に対する立ち位置が違うから」だと思います。
その断絶があるために、夢女子にも色々あることが腐女子側には理解されず、全員「キャラ×そのままの自分」を楽しむ人と思われることが多いです。
夢女子の中にも色々なタイプがいます。先日非常にわかりやすい分類のツイートを見つけたので引用します。
この分類、個人的には大変しっくり来ています。私は作品に応じて1〜3の度合いが変わるタイプ。4は上述の「オリキャラ小説」にあたり、厳密には別物ですが、外界から見たら「夢」と混同されるため、あえて入れているそうです。
作品に対する立ち位置という点から考察するなら、まず腐女子とオリキャラ創作者はある程度同じ分類にできると思います。両者に共通するのは、あくまで書き手および読み手は傍観者、あるいは俯瞰視点という点。よく「推し(カプ)の部屋の壁になりたい」「空気になりたい」という人がいますがそんな感じでしょうか。
「自分」という存在は、作品世界に置いて無に等しい。したがって、夢女子が自分を物語に入れ込むことに対して「おこがましい」と言う声があがったりもします。
しかしこれでは「オリキャラを投入する理由」の説明になっていないので補足すると、この二者の違いは、願望の種類というかボーダーラインが違うのだと思います。
腐女子の場合は「キャラ同士に○○させたい」というところで完結するので、オリキャラを入れようという考えには至らないのではないかと。オリキャラ創作の方は「キャラの○○なところを見てみたい」という願望を満たすキャラが原作にいないため、オリキャラを投入するのではないかと。
そしてこれが夢女子となってくると、立ち位置が変わります。書き手および読み手は傍観者ではなく、体験者になります。作品の推敲時など、傍観に徹する必要は出てきますが、基本的に夢小説は「作品世界でキャラとのアレコレを体験するのが目的」だと思っています。
夢小説を自分と切り離してオリキャラ小説として読む人もいますし、オリキャラ小説でもオリキャラを通して書き手/読み手が体験しているという場合もあるので、最終的には個人の主観次第です。
したがってこれはあくまで自己投影度合いの強い私の場合ですが、夢女子には「体験者でありたい」という感覚の人は多いのではないかと考えます。
私はその作品にドハマりすると、自分もその作品世界で過ごしたい、キャラと関わりたいと思ってしまうんです。夢小説もシミュレーションゲームも、自分の名前入れてナンボ。自分の書いた夢小説も、できれば読み手の人には没入して投影して読んでほしいと思うくらい。
ただ現実の自分のままで接することは難しいから、作品世界に合わせて設定を考えたり、出会えるようなシチュエーションを想像したりする。性格も必要とあらば変えます。理想を投影することもあります。ていうかしょっちゅうです。最悪モブでもいい、という時もあります。
ありのままの自分で推しに出会いたいとは、あまり思っていません。出会えたら嬉しいけど、多分好きすぎて色々と無理。でも、ありのままの自分で推しと胸を張って出会えると言い切れる人は素敵だと思いますし、推しに会っても恥ずかしくない自分になりたい、とは密かに思っています。
根っこの自我は夢女子でした
体験者としての欲求がずっと昔からありました。
私が二次創作物に初めて触れたのは某少年漫画のBL小説でした。よって、女オタクとしてのスタートは腐女子だと思っていたんですが、最近記憶を掘り起こしていて実は「根っこの自我は夢女子」だということに気付いたんです。
小学生の頃、ものすごく好きな漫画があったんですが、その漫画の主人公の「姉」というキャラクターを自分で作って落書きをしていたんですよね……。そのオリジナルキャラクターの外見的特徴や性格は自分に近いものです。「危なっかしい主人公を姉として支えてあげたい」みたいなことを考えていました。これってまんま夢女子じゃないですか……。
物語を体験したいという欲求はずっとあったようで、「ドラえもん」のひみつ道具に「絵本入り込みぐつ」というのがあるんですが、それが心底ほしいと思ったのを未だに覚えています。
その後腐女子として目覚めましたが、BL小説は結局2〜3本しか書いたことがなく、自分でサイトを立ち上げたのも夢小説メインで、中学三年間は延々夢小説を書いていました。
そして空白期間はあったものの、結構いい歳になった今も夢小説を書き散らかしています。まさかこんなに長く書いてるとは思わなかったよ……。この辺りの話はまた詳しく書きたいと思います。
ちなみに、私も常に没入体験型というわけではなく、原作の考察や腐妄想をするときは傍観に徹する自分がいますし、推しの尊さが極まると「壁になりたい」とか言い出します。何なら推しカプに夢女子の自分が敗北して失恋することもありますし、自分に都合の良すぎる妄想をして原作厨である自分の地雷を自分で踏み抜くこともあります。(めんどくせえオタクだな!!!)
断絶は悲しいし理解しあえなくても共存していたい
改めて、ここに書いたことはあくまで「いち女オタクの個人的な意見・考察」です。すべての女オタクの総意でないことをご理解ください。ていうか総意であってたまるかよ。
作品や二次創作物に対する立ち位置、スタンス、本当にいろんな方がいると思います。今回は便宜上「腐女子」「夢女子」とひとくくりにしましたが私のように両方こじらせている人もいるでしょうし、夢女子でも上記4分類のどれにも当てはまらない人もいると思います。百合好きや男女カプのみ、公式カプ以外NGな人もいますし。
著作権の観点から言えば、二次創作はものすごくグレーです。昔は結構隠れてやるものという雰囲気がありました。今でもおおっぴらにするものではないんですよ、ホントに。公式に対する配慮(検索避けなど)は大前提ですし、法的にグレーであることには変わりません。
でも、すごくすごく前向きな見方をすれば、二次創作というのはファンの「こうだったらいいな」という願望が詰まった宝箱です。
二次創作で新たな扉が開く人がいて、二次創作から沼に落ちる人がいる。二次創作があるからこそ、公式の提供するコンテンツだけで完結せず、作品の命が続いていくんだと思います。
理想論と言われるかもしれませんが、同じ作品を好きな人同士、理解はしあえなくても否定したり攻撃したりするのはなんというか悲しいと思うのです。同じ人間なので相容れないというのは勿論ありますし、好きになる部分も愛し方も人ぞれぞれ。
ジャンルに人が増えることで顕在化する問題は多々ありますが……それでも、本来は情熱をかけられた作品に接する瞬間やそれが大事な作品になっていく過程というのはとても尊いもの。そこで人間関係でモメて作品まで嫌いになるってのは、何かすごく、優先順位を違えているような気がします。
それにどんなスタイルであれ、好きな作品や好きなキャラ、そして生まれ出る妄想というのは、誰しも多かれ少なかれ自分の欲求を投影しているものです。
だからこそ他人が許せないとかそういう対立が起こるのは、人の心理構造上致し方ないというのも事実です。しかし、それはなんというか、その作品とファンと自分自身を知らず癒着させてしまっているからだと思います。
何かを否定するときは自分の中に認めたくないものがある。それは多くの人に共通することだと思います。
結局のところ私も、自己投影甚だしいガチ恋夢女子という性質上、己と作品を多分に癒着させてしまっている自覚はあります。人には言わないし強要しないだけで、嗜好は過激派な側面もあります。自分がリスキーな人間だという自覚があるからこそ、隠居しています。
だから、こんなnoteを書くのは、自分の中で抑圧された夢女子の自我と、分離した腐女子の人格を統合、解放するための試みでもあるんだと思います。
別に夢女子のメンタルを知った所で、受け入れがたいものは受け入れがたいと思いますし、逆も然りだと思います。
自分と違う嗜好の相手を「理解しろ」とも「共感しろ」とも言いません。ただ、こういう嗜好もあるんだよということを頭の片隅においてもらい、せめて同じ作品を好きな間くらいは共存させてほしいと思うのです。
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