わたしを信頼しないでほしい
人から信頼されるのが怖い。
わたしはつい、アドバイスをしたり、不安定な人に優しい言葉をかけようとしてしまう。確かに、優しくありたいと思うし、相手を思いやってるときもあるんだけれど、それで信頼を寄せられるとすごくひるんでしまうときがある。
何故かと言うと、その思いやりが、相手との距離感や好悪の感情と関係ないことがあるからだ。他人の人生に勝手に責任を感じて、不安になり、それに耐えられなくなっているだけだから。
ごめんね、だからさ、わたしは優しいわけではないんだ。そもそも、わたしに誰かを大切にするなんてできるわけないんだ。
他者との境界線が薄すぎて、他人の不安と自分の不安を区別できないとき、過去の記憶をたどって「その時、わたし自身が言われたかったこと」を再生しているだけだったり、相手が言って欲しいことを察して反射的に言ってしまう。
わたしが誰かにアドバイスをしたり、相手の都合がいいように演じるときというのは、嫌われたくない、寂しい、何でもいいからわたしを見てほしい、一人にしないで欲しい。そんな気持ちの裏返しだったりする。
わたしの優しさは、結局のところ、自分のための優しさだ。
究極に自己中心的なんだ。
度を越した嫌われ恐怖から、周りの期待に応えるために自分を削っているときがある。そしてそれに自分で気付けない時のほうが多い。昔よりは減ったけど、今でも人と話すときについやってしまいがちだ。
仕事していたときは特にひどかった。相手の要望に応えるのが仕事だから、相手の要望の二手三手先を読んで返す。そうすると信頼され、相手はまたそれが当たり前の基準だと思う。そしてわたしも相手のためにそうあらねばと振る舞ってしまうから、更に自分が削れていく。
そういう経験があったせいか、また、自分自身を信用できていないのか、とにかく人から「信頼される」のが怖い。
自分のやったことに責任のとれない、器が小さい人間だ。
おまけに精神科通院履歴が長くて、自己分析がそこそこできていて、心理学もかじっているから、人の裏の気持ちがある程度予測できてしまう。できもしないのに、相手の気持ちをアレコレ考えて「どうするのが最適なのか」と、自分の気持ちを度外視して客観的判断を下してしまう。
以前旦那に「おまえはカウンセラーじゃないんだからそんなに気を回さなくていいんだよ」と言われてハッとしたことがある。
そもそも、社会の中で生きる、集団の中で自分のポジションを確立する、といったような、一対多のコミュニケーション経験があまりにも少ない。
小学校の頃の記憶はあいまいで、中学も高校も不登校だった。専門学校でも劇団でも、私のこと嫌いな人は多かったと思うし、会社では、誰にも心を開けなかった。
自分の浅ましさ、情けなさをひた隠しにして、誰かの役に立ちたくて、認められたくて、他人に合わせようとするくせに、本当の自分を知ってほしい、理解されたい、見抜いてほしいという思いが、同じくらい強い。
誤解されて嫌われる、ということが経験として強くトラウマになっている。人から嫌われるのは怖い。「本音を言えば絶対失望される」とか、「わたしは生まれながらの詐欺師だ」とか、そういう恐怖心がずーっとつきまとっている。
ひとって、誤解するものなのにね。お互いほんとうのことなんてわからない。なのに、理解しあえない不安が大きすぎてくるしい。引き裂かれそうだ。
ちなみに、誰かを嫌うのもエネルギーを使うから大の苦手だ。(一度嫌いになると、余程の事がない限り気持ちが戻ることもないけど)
でも、人を嫌えないということは、自分がひどいことされても気づけないということだったり、付け込まれるという危険もある。だから、判断を見誤ると最悪(広い意味で)殺されるんだ。自分の判断なんか信用できないことのほうが多い。
「相手はこれが欲しいんだろうな」と察知することと、自分の行動は分けて考えるべきなんだと思う。だいたいその予測が合っているとも限らない。すぐに手出しするのは相手の責任能力を奪う行為であり、越権行為でもあるように思う。自分の器を見誤った、傲慢さだ。
このあたり過干渉だった親の悪い影響をたぶんに受けているなあ、と思う。
わたしが与えなくても、相手が取りに行けると信じること。相手には相手の人生がある。そうやって線を引く事が、健全な人間関係なんだろうか。
言葉ではわかるけど、なかなか難しいなあ……。
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