自分の好きなように書くのがいちばん良い
ほんの数日前のこと。
朝目が覚めた時、ふと心の奥からある想いが上がってきた。
「だって思い通りにさせてくれないもん」
それは、「なんで私は小説を書けないのか」という問いに対する、インナーチャイルドの答えだった。
*
私にはずっと、好きなものや、やりたいことを我慢してしまうというクセがあった。
それでは行き詰まると気付いてからは、いろいろな方向から自分の心をほどいてきて、今ではそのクセもだいぶ治まってきていた。
けれど、趣味の小説に関してはまだ書きたい気持ちを我慢したり、書きたくても書けないと感じることが多い。
それでも一応、年に数回筆が乗る時があって、その時期に集中的に書くことでなんとか書き続けていた。本当はもっと、コンスタントに書ける人に憧れるのだけど、なかなか難しい。(ちなみに二次創作小説なので、ここに載せるようなものではない)
なぜ書きたいのに書けないのかと言えば、小説を書くことに対する罪悪感があったから。
けれど、ある時期から「むしろ、その罪悪感こそが思い込みなんじゃないか」と疑い始めた。最初に書いた通り、好きなことを我慢すると行き詰まるから。
最初のうちは「できれば思い込みだと信じたい」という、弱々しい希望的観測だった。「それ」が「ブロックである」と決めつけるのは、私にとってあまりに都合がよすぎると思うことも。
「そんなことはやめて、もっと社会の役に立つことに時間を使え」と言われているようなプレッシャーの方が圧倒的につよくて、ハッキリとそう言い切る勇気が出なかったのだ。
でも心の底には、そういうプレッシャーに負けて好きなことを諦めてきた自分に対する強い後悔と怒りがあった。その気持ちを原動力に、自分の心をこねくり回したり、ブロックを外すようなセラピーを続けてきたのは、私の記事をよく読んでくださってる方なら、既にご存知のことと思う。
おかげで、罪悪感は軽くなってきたし、特に昨年は自分の中のブロックが大きく外れる出来事が色々とあった。
それでも未だに書けないと感じることはあって、一体何が足りないんだろう、どうすればいいんだろうと頭を悩ませていた。
そしてある夜、自分に問いを投げた。
「何故、自分は思い切り小説を書けないんだろう?」
翌朝返ってきたその答えが、冒頭の言葉。
「だって思い通りにさせてくれないもん」
思い通りにさせてくれないから、つまらない。
書きたくない。
協力したくない。
そんなふうな感覚が湧いてきた。
その時、私はとにかく打ちひしがれた。
良い作品を作りたくて、自分に対するダメ出しを当たり前のように行ってきたけれど、それが自分を傷つけていたということ。
つまり私は、浮かんだアイデアを自分で潰しておきながら、「書けない」と嘆いていたのだ。
自分への申し訳なさと情けなさでいっぱいで、苦しくて。その日はずっと「思い通りにさせてくれなかった……かあ……」とことあるごとにつぶやいていた。
だってその子の「思い通りにさせてもらえなかった」という気持ちが、痛いほどわかるから。それは、かつて親や周囲に対して感じていた不満でもある。私は自分がされて嫌だと感じていたことを、自分に対してやっていたのだ。
一通り打ちひしがれたその日の夜、ようやく少し気持ちが落ち着いてきたタイミングで、インナーチャイルドには「今まで無視してごめんね」と「言ってくれてありがとう」と伝えた。
それから数日後、ふと、小説を書きたい気持ちが湧いてきた。
その日は少し長く電車に乗る用事があったので、移動中に小説用のエディタを立ち上げて、書きかけの小説に手を付けた。
はじめは好きなように書いていた。そうすると、キャラクターが動いて話が勝手に進んでいく感覚があって、とても楽しかった。
しかし、途中から「ここは別に必要なくない?」「このキャラこんなセリフ言うかな」などと、ダメ出しをする自分が出てきたのだ。
──ああ、これか。
先日浮かんできたインナーチャイルドの言葉が思い出される。
その時、ダメ出しをする自分に対して、なんだか、とても「イヤだな」と感じたのだ。ダメ出しをするのは良かれと思ってのはずなのに、自分の内側ではそれが「気持ち悪いし苦しいしつまらない」と感じていると気付いてしまった。
今までは、この「思考」は、作品を面白くするために必要なジャッジだと思っていた。その存在、行為に疑問を抱いたことなんてなかったから。
しかしこの気持ち悪さは、紛うことなき「エゴ」で、「執着」だった。
思えば、これまで自分の書いたものに自信が持てなかったり、公開することに対しての恐怖心があったのも、「作品を良くしたい」というストイックさも含めて、承認欲求と自信のなさの裏返しだったんだと思う。
私はすぐに、その「思考」から離れ「好きに書こう」と切り替えた。
とりあえず転がしてみよう。きっとキャラクターは勝手に動いてくれる。
そう思って再び書き始めた。
すると面白いことが起こった。
その時書いていたのは続き物の途中の話で、最終話までの展開の大筋は決まっているのだけど、目指す着地点に対してキャラクターの心情をどう持っていけばいいのか決めかねている部分がところどころあって、それもまた執筆を滞らせる一因になっていた。
しかし、自分から出てくるままに書かせてみると、当初予定していなかったキャラクター同士が会話し始めて、気付くとそのキャラクターの心情が勝手に固まっていたのだ。
頭の中では「冗長だからカットしよう」とか「流石に展開がワンパターンすぎないか?」とか考えてしまっていたけれど、キャラクターはちゃんと動いていて、展開としてはまとまっていた。
まだ細かい部分を詰める必要はあるけれど、その時はなんだかとても楽しくて。また書きたいと思ったし、むしろ推敲したい思考も「もっとこういうところを細かく描写するとよくなるよ」と協力的になった。
*
この出来事で、私の中の「創作」に対する見方が変わった。勘違いがほどけたと言ってもいいかもしれない。
私はずっと、創作物は、何か途方も無い努力をして生み出されるものだと思っていた。
創作のたとえとして「ゼロから何かを生み出す」という表現がある。また、「産みの苦しみ」という言葉を使うことも。これらの言葉は、まるで創作をとても苦しくて難しいことのように感じさせてくる。
ある側面から見れば正しいのかもしれない。広まったということは、同じように考える人がいるからだ。
けれど、本質を言い表してはいないと思う。
たとえば「ゼロから何かを生み出す」という言葉。
目に見えるものしか信じない人には「ゼロから何かを生み出している」ように見えているだけで、創造的行為の実際は「すでにあるものを、自分の身体を通して出している」だけ。
ただ、その「すでにあるもの」は、現実、つまり物質界にはないエネルギー。ここで詳しい説明はをすると長くなるので省くけれど、この場では、既存の作品であれ、他者の言葉であれ、風景であれ、それら全てもひっくるめてエネルギーとする。
そのエネルギーがつくり手の身体を通って、その人ならではの形になっている。それが「ゼロから何かを生み出している」ように見えているだけ。
それが創作。創造的行為。
そして、エネルギーは流れるものだから、出てこようとするものは、止めることはできない。これはそういう仕組みなのだ。
ただ出てこようとしているものを、「面白くしよう」とか「人に良く思われるようにしよう」とかアレコレ考えるエゴで滞らせてしまうから、書いているとつまらなくなるし、つらくなる。
そう考えると、「産みの苦しみ」という言葉についても、意味が解けてくる。
つまり、創造的行為が苦しいと感じるのは、エゴが直感を滞らせるから苦しいんじゃないだろうか、とも思う。何故なら、この言葉は大抵アイデアが出ない時に用いられるからだ。
そもそも「苦楽は表裏一体」なのだ。苦しいだけなど有り得ない。
書くことは苦悩だと言う人もいるし、かつては私も「病気じゃなきゃ書けなくなる」と思っていた。けれど、それは絶対に違う。
では、創作の「楽」を味わうにはどうすればいいのか。
それは簡単だ。エゴが苦しみを産むなら、逆をやればいい。
エゴを脇において、自分の「直感」を信じる。そして、自分におりてくる、あるいは自分の中から湧き上がる感覚(=エネルギー)を素直に表に出す。この直感は、想像力と言い替えてもいい。インスピレーションという意味ではどちらも同じものだ。
人はありのままでそれぞれ違うし、同じエネルギーを受け取っても、通る人で違う表現になる。それは、同じ作品を見ても感じることがひとりひとり違うことと同じ。
そして実は、表現しようとしなくても、もう既に溢れているのだと、先日親しくしてくれている人が教えてくれた。
流れるものを流れるままにすれば、楽しく書ける。
今回、思い切って転がしてみたことで、身を以て実感することができた。
逆に言えば、私がずっと苦しかった理由は、自分が書いているものの面白さを信じていなかったんだということ。
自分の中から生まれているものなんてない、と思っていたから、外から吸収したいろいろなもので固めて取り繕ってきた。そんなだから、ずっと自分は空っぽだと感じでいたし、どれだけ書いても枯渇感は消えないから、人からの評価を気にして、どんどん苦しくなっていった。
そして、勇気を出して直感を自由に羽ばたかせることを自分に許してみたら、書くのがとても楽しかった。
つまるところ、私が小説を書くためにいちばん必要なのは、小手先のテクニックでも、付け焼き刃の自信でも、読者の存在を知らせる数字でもなくて、ただ自分を信じることだった、という話。
気が付いてみれば「なんだ、こんなに簡単なことだったんだ」なんて思ってしまう。
でも、気付けてよかったな。気付かせてくれてありがとう。
*
思い切り書きたいのなら、自分の好きなように書けばいい。
それは自分自身のエゴではなく、自分の内側から溢れてやまない気持ち、エネルギーに耳を澄まして、まず、それをそのまま表現してみる、ということ。そのままの自分を出すのは少し怖くもあるけど、それ以上にきっと楽しいはず。
エゴ、思考を完全になくす訳ではない。思考は経験を持っているから、作品としての完成度を上げたいときにはきっと役に立つ。
しかし、思考は現実にあるものに対してはたらくから、やっぱり直感が先なのだ。まずは自分が表現したいものを「現実」に出す。
文字でも、なんでも、視覚で認識できるカタチにする。
そうすることで、思考が「もっとこうしたらいい」とアドバイスをくれるはず。
けれど、そのアドバイスを活かすかどうかの判断は、やっぱり直感や感性でやっていく。好み、と言い換えてもいいと思う。
「自分にとって心地よいかどうか」
「好きかどうか」
「美しいかどうか」
そういうはかりにかけていく。
自分の中から出てきたものなら、それがなんであれ「本物」だ。
そういうふうに、肩の力を抜いて作品を作っていけば、きっとそれは自然な姿で完成するんだと思う。
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