『アップルパイ』
執筆時BGM:イート/jon-YAKITORY・Ado
【前書き】
皆さん、こんにちは。本作は大学のサークルで出している部誌の2023年度8月号に掲載してもらった作品です。今回も他作品同様に改稿なしでの掲載となります。
完成した後の感想ですが、久々に書きたいものを思いのまま書いた、という感じです。ただ詳細に説明してしまうと積もりに積もった想いが爆発しかねないので、ここでは割愛させて頂きます()
一つだけ紹介するとすれば、本作は「確立されたイメージからの脱却」を大きなテーマとして掲げています。読者の皆さんは「アップルパイ」という単語を見聞きし、どんなイメージを思い浮かべるでしょうか。そのイメージを頭に浮かべたまま読んで頂けると、きっと本作は別の楽しみ方ができると思います。
友人の結婚祝いに開かれたホームパーティーは、想像以上に豪勢になりそうだった。
大学時代のサークルのメンバーを数年ぶりに集めたこの催しは、うちの代の部長の提案によって開かれた。派手好きで、主役の人とは親友に当たることから、盛大に祝おうと自宅を開放し古き友人達を招き入れたというわけだ。
四人は余裕で入るダイニングキッチン。吹き出し窓の向こうに広がる原っぱ。部長を中心にガヤガヤと騒ぐ様子を呆然と見つめながら、次々と食器の泡を洗い流す。
相変わらず、凄い人だなと思う。
大学を卒業して早々IT関連の会社を起業し、今や界隈でそこそこの知名度を上げるまで成長している。その功績の結晶が、パーティーの舞台となっている広い庭付きの一軒家というわけだ。大学時代からそのカリスマ性は発揮されてたけど、しがないサラリーマンとなった僕とは天と地ほどの差がある。
「にしても、今日はありがとうね。裕くんがお菓子作れる人で助かったよ」
落ち着いた雰囲気の中に、子供らしさを内包したような声音。胸のささくれが痛むのを堪えながら、徐ろに振り返る。
「絶対わたし一人だったら、こんな無理難題途中で投げ出してたわ。あいつの顔にスパーン! って感じで」
庭を指差しながら言う彼女の冗談に、思わず頬が緩んでしまう。この人も、あの頃から全然変わってないな。
「駄目ですよ。あの人ドMなんで、怒るどころかむしろ狂喜乱舞しますよ」
「うわ、確かに。あいつ無敵だからなあ、どんなに酷い仕返ししても、絶対ご褒美に変換しちゃうんだよね」
「そういう能力者なんですよ。じゃなきゃこんな凄い家買えてないですって」
「あちゃあ、そっか。成功の秘訣はそこにあったかぁ。ダメ人間じゃん。それに引き換え、裕くんは頼りになるなあ。将来のお相手さん、絶対幸せになると思うんだよね」
将来のお相手さん、か。
湧き出す黒い靄を、必死で押し殺した。その感情はとうの昔に捨てたはずだろう。今更表に出てきて何になると言うんだ。
お皿に視線を戻すふりをして、彼女の横顔を横目で眺める。
茜先輩は、出会った時からこんな感じだ。優しさと天然さが合わさってるせいで、人の自尊心を無意識に掻き立てるくせがある。きっと前世はサキュバスだったんだと思う。決して本人の前で言えることではないけれど。
その上、性格もずるい。一見大人びた空気を漂わせておきながら、いざ会話してみるとほんわかした雰囲気を漂わせてくる。言霊の中に媚薬でも混ぜてるんじゃないか、とそんな突飛なことを本気で考えてた時期もあった。
性格でも、言動でも、知らないところで人を沼にに沈めていく女性。僕も、かつてその魅力に取り憑かれたうちの一人だった。
「それにしても、この感じ。懐かしいなぁ」
両手をタオルで吹きながら、茜先輩は庭の方角へ憂いに満ちた眼差しを向ける。
「年数で数えたらそんなに経ってないはずなのに、あんな風にみんなではしゃいでる姿を見てると、ああ随分大人になっちゃったんだなって思っちゃうの」
「へえぇ、意外かも。茜先輩、割と過去を惜しむより未来を楽しむイメージがあるから」
「確かに大学時代はそうだったかも。でも、最近は結構考えが変わってきてる。多分、サークルのみんなに影響されたのかもね。裕くんもその一人だよ? 色んなことを教えてくれたし」
色んなこと。その一言が、古傷の一端を優しく刺激した。
「たはは、それは光栄ですね。茜先輩に影響を与えた人物の一人に任命されるなんて」
「そうだよぉ? この名誉は今後一切誰にも授与する気はないからねぇ? 一生の宝物として保存しといた方がいいよ?」
「うわ、急に重くなった。これから一生背負って生きていきます」
「そうしなさい。……ふふっ。これじゃあわたし、まるで重い女みたいだね」
先輩との距離がぐっと縮まった気がして、少し動揺してしまう。厨房があの頃と同じ、朗らかな雰囲気で包まれた。同時に、シナモンの甘い香りが漂い始める。お菓子作りにおける、ラストスパートの合図だった。
「さて、そろそろかなぁ」
大事そうに持っていたタオルを無造作に置いて、茜先輩はオーブンへと歩み寄る。
許されるのであれば、この横顔をずっと拝んでいたい。彼女の一挙手一投足を、これからもずっと見守っていたい。実感して、ああやっぱり未練たらたらだったんだな、と自分の不甲斐なさを噛みしめる。
その上で、追い打ちを喰らった。
そんな想いすら、音を立てて崩れ去った。
オーブンの扉を開いた彼女の手が、銀色に煌めいた。正確に言い表すのなら、薬指の辺りに仄かな閃光が瞬いた。
無論、知っていた。知っていたけども、こんなにも無常に見せつけられるものなのか。
食い縛ろうにも無意味なこの歯痒さが、口内からお腹の辺りにかけて広がっていく。甘ったるいぐらいのシナモンの香りも、ツンと鼻を刺すような刺激臭に変貌する。
顔一個分の大きさをした黄金色のアップルパイ。それを慎重に取り出しながら、茜先輩は満足げに微笑む。
彼女の笑顔を彩る──純白の指輪。
差出人は、庭で朗らかに笑う部長だった。
「実はわたし、好きな人がいるんだ」
ある晩の飲み会の帰り道。偶然にも方向が一緒だった茜先輩が、繁華街の表通りでそう打ち明けた。煌めく夜道の光が、目の前で大きく揺さぶられる。
「こういうの初めてだからさ、どうすればいいかよく判らなくて。たしか裕くん、あの人と仲良かったよね? 相談に乗ってもらってもいい?」
あの日、部長と違って酔い潰れてなかった。そのはずなのに、今まで胃に溜めてきたものが蓄積した感情と一緒に溢れてきそうだった。
夢の中だったなら、この赤く熟れた恋情を思い切り握り潰したかった。
「……僕もあんまりそういうの得意じゃないので参考になるか判りませんが、あいつ結構押しに弱いので、先輩が積極的に行けばいけるんじゃないですか?」
「積極的に行く、かぁ。例えばどんな感じなんだろう。直球でデートに誘うとか?」
「それは距離を詰めすぎですね……」
いつもの天然ぶりが、みぞおちを容赦なく殴打してくる。笑顔の仮面が崩れていないか、急に不安になった。
「でも、話しかける回数を増やすのは全然アリだと思います。急にラインとなると流石に身構えますけど、日常会話を増やすぐらいならまあ自然かもしれません」
「ああ、なるほど。ありがと、やっぱり誰かに悩みを話すと抜群に楽になるわ」
先輩の顔に、仄かな光が開花した気がした。
彼女に投げかけたアドバイスが、全部刃物となって胸元へ返ってくる。俯瞰的に見たら、きっと僕の身体は傷だらけになってる。それも全部、先輩と近づきたいがために身につけたものなのに。
砂糖風味のほろ苦い日常が、たった一言で崩された。あの日彼女を失恋させられれば、とは度胸のない僕には考えられなかった。
程なくして、部長と先輩はサークル公認のカップルとなった。それを知った当時、悔し涙と共に呑み込んだ感情の味を、恐らく未来永劫忘れることはないと思う。
「やっぱり勿体ないよ。お菓子作りの道、諦めちゃうの」
アップルパイを切り分けながら、茜先輩は最初に僕が切り出した会話の内容を掘り返した。
「わたしより手際がいいし、一つ一つの作業が丁寧だし。あんまりこんなことを言うのもあれだけど、もう一度目指してみたら? パティシエ」
林檎の優しい匂いを噛みしめて、重い溜息をつく。仮初めの笑顔を忘れないよう、慎重になりながら。
「褒めて頂けるのは嬉しいんですけど……正直昔ほどの情熱を感じられなくなっちゃって。夢をまた追う、ってなったら尚更です」
「そうなんだ……残念。裕くんの作るお菓子好きだったんだけどなぁ。それももう食べ収めか」
声のトーンを落として、心から残念がるように先輩は呟いた。そうして目線を落としたのを見計らって、唇を噛む。
多分、先輩が知る由はないんだろうな。僕の情熱が潰えた理由なんて。
「それじゃあ、パイ持って行っちゃおうか。わたしたちを差し置いて楽しんでる罰としてみんなの舌、火傷させちゃおう?」
「……実は先輩、隠してるだけで本当に重い女性だったりしません?」
「えー? やめてよぉ、裕くんに言われたらガチで凹むから」
悪戯っぽく笑いながら、先輩はパイの乗った大皿を運んでいく。生地が秋の日差しを反射する、これまでにない程の完璧な出来。
あの衣を切って剥がしたら、一体何が入っているんだろう。
さっきパイを切り分けたように、この胸骨を先輩に切り分けてもらえたなら、隠し通した恋情を見つけてもらえるだろうか。
まだ甘い果実は残っているのだろうか。いや、もしかしたらグチュグチュに熟れた、シナモン漬けの後悔しか残っていないのだろう。
とても人に見せられるものではないけど、先輩になら見られてもいい。というか、彼女には刮目してほしい。長年熟したこの苦痛を、先輩にも噛みしめていてほしいから。
不意に吐き気が口元まで昇ってきて、近くにあったグラスに水を汲んだ。一杯じゃ足りなくて、何度も、何度も喉に流し込む。ようやく落ち着いた頃には、何故か息切れを起こしていた。
早く行かないと。
先輩に不審がられるわけにはいかない。
陽が照りつける庭の方へ、僕は一歩踏み出した。先程まで取り憑かれていた赤黒い感情を、胃の奥へと押し込んでいく。
了