『仲直り機』
【前書き】
皆さん、こんにちは。早河遼です。
本作は大学のサークルで出している部誌の2022年度5月号に掲載してもらった作品です。こちらも結構昔に書いた作品なので文章が拙いですが、当時の面影を残すため、例の如く改稿なしでの掲載となります。
本作を書いていた時期、実は大学の友人との揉め事がありまして。一応和解はできたのですが「もし何らかの原因で仲直りできずに終わったらどうなるんだろう」という想いがふと浮かんだんです。その発想を元に作品として具現化しています。ちょっとファンタジー寄りで現実感皆無なんですけどね。
この作品以降、部誌用の作品は何かしらの挑戦とか目標めいたものを掲げて書いています。今作だと「現実とのパラレルワールドを想定して書く」と言ったところでしょうか。
真っ先に思い出すのは、小学校の日の情景。
二年生になってしばらく経った、六月の穏やかな木漏れ日。校庭の端にあるブランコに座りながら、麻世友哉は目元を腕で覆って啜り泣いていた。理由は……自分でも解っていた。僕との言い争いが原因だったからだ。
小学生特有の些細な口喧嘩。それが収束することなくヒートアップしちゃって、友哉は目を赤くして走っていってしまった。いつも強気で、クラスのリーダー的存在な彼からは想像できない泣き顔が頭から離れなくて、胸が焦げ付いたように痛んだ。
どうやって仲直りしよう。僕は友哉くんに酷いことを言った。どうしよう──そんな風に未熟な頭を回転させているうちに。
……一つの空き箱が目に留まったのだ。
図画工作の授業で余った箱と折り紙。それらを上手く改造したものを持って、僕は木陰に隠れていた。ブランコに腰をかけている友達の姿を、眼鏡のレンズ越しに見つめながら。
緊張で足が動かない。胸がキュッと締まる。
でも、ここで謝らないと一生前に進めない。そう自分を奮い立たせて、重たい足を無理矢理動かした。
「友哉くん!」
駆け寄りながら、僕は友達に声をかける。それに気づいた友哉はゆっくりと顔を上げた。
「そのこれ……開けて」
そう細々とした声で言って、持っていた箱を両手で友哉に差し出した。反応は微妙で、怪訝そうに首を傾げてしばらく固まっていたけど、やがて慎重そうに箱のふたを開けた。
途端、中から飛び出すカラフルな紙吹雪と白い綿毛、そして一通の手紙。折り紙のバネを裏側に付けた色紙の手紙には、一言だけメッセージを書いていた。
『ごめんね』
今考えたら、あまりにも失礼な謝罪。だけど、当時の僕にはこの方法しか思いつかなかった。何故なら、謝る勇気すら湧いてこないほどの臆病者だったから。それと、空き箱を目にした途端、時計技師の祖父の言葉が蘇ってきたからだ。
──英二。発明は人を幸せにすることができる。お前さんも、もし物を作る仕事に就きたいのなら、誰かを笑顔にできるものを作れる人を目指しなさい。
この「誰かを笑顔に」という部分が、僕を突き動かした。今誰よりも笑顔にしたい人物を思い浮かべながら、祖父から授かった工作の技術と発想力を駆使して、急ピッチで作り上げた発明品第一号。
その初稼働を受けて、友哉は口をあんぐりと開けて固まってしまった。反応から察するに、失敗しちゃったかなと胸が騒めいた。
そうして、数秒の沈黙が流れた後。
急にぷっと、友哉が吹き出した。
「おい! 何だよ、コレ……クッソウケる!」
そう言って、ゲラゲラと腹を抱えて笑い出した。さっきまでの泣き顔もまるで噓のよう。張りつめた空気が糸のように切れた、そんな感覚だった。つい釣られて、僕も笑顔になる。
……今思い返せば、これが友哉と『親友』同士になったきっかけだったんだと思う。この記憶の断片に映る空は、清々しいほどまで蒼く澄み渡っていた。
この瞬間から、僕らはお互いに呼び捨てで名前を言い合うことになった。元々仲は良かったけど、最初の喧嘩をきっかけに、常に隣に友哉がいる日常が当たり前になるほど関係が密接になった。
友哉は僕にスポーツの楽しさを教えてくれた。そのお礼として僕も、工作の楽しさを共有した。僕は、運動と疎遠だった過去の自分を恨むぐらいにはスポーツが大好きになったし、友哉も自分の作品を披露するぐらい工作を気に入ってくれた。お互いの「好き」を共有したことで、二人の絆がより深まったように感じた。
放課後は出来るだけ早く遊べるように、二人で家へと駆けていった。それで、それぞれがやりたいことを交互に遊ぶのだ。スポーツや工作は勿論、ゲームや探検、他の友達を交えての鬼ごっこ。漫画を一緒に読んだりもした。楽しくて、楽しくて、時間だけがあっという間に過ぎていく。そんな日々だった。
友哉と笑って、はしゃいで、お互いの「楽しい」を分かち合う。そんな日常が、中学生、高校生、そして大人になっても、永遠に続くものだと信じていた。どんな困難が待ち受けていても、二人一緒だったら壁ごとぶち破ることができる。そう信じて疑わなかった。
お互いにその気持ちが一緒だと実感した、四年生になりたてのある春の日。
僕たちは、二度目の喧嘩をした。
きっかけは、やっぱり些細な出来事。
その時期、僕に好きな人ができた。どこか大人びていて、可愛くて、優しい女の子。今まで色恋の一つも知らなかった僕に妙な感覚を植え付けてくれた、いわゆる初恋だった。
そのことを、相談も兼ねて友哉に打ち明けた。誰にも言わないでほしい、というお願いも含めて。最初は揶揄ってきたけど、最終的に僕の初恋を応援してくれた。何度も叩かれた背中がじんと痛んだけど、その後押しがとても心強かった。
だけど、その一週間後。事件は起きた。
いつも通り学校に来て、教室に入った時のことだった。席につくや否や、秘密を告白した覚えのない別の男子から好きな人のことに対して冷やかされたのだ。
その浮ついた空気は、すぐに他の男子へと伝染した。僕がたまに遊ぶグループから、普段あまり話さないグループへ、挙句の果てには一部の気の強い女子にまで情報が行き渡ってしまった。意中の相手に危うくも伝わらなかったことが不幸中の幸いだった。
いろんな人から問われ、揶揄われることに対する羞恥心と屈辱。しばらくは耐えられたけど、だんだん我慢できなくなって、三日後の帰り道でとうとう友哉に尋問した。
「ねぇ、友哉。もしかしてなんだけど、僕に好きな人がいること、誰かに言った?」
西日が黒い影を伸ばす、住宅街の遊歩道。友哉はキャップの鍔で目元を隠し、ただ沈黙していた。
「誰にも言わないでって、言ったよね? どうして話したの? 誰に話したのさ」
質問を重ねてみたけど、やっぱり彼は答えない。沸々とお腹の辺りで怒りの灯火が大きくなっていく。
「ねぇ、黙ってないで答えてよ。どうして話しちゃったのさ。ねぇ……ねえってば!」
遂に痺れを切らして、僕は語気を強めて問うた。
すると、少し間を空けて、かすれた声で友哉は言った。
「……ごめん」
聞きたくなかった、親友の一言。
その謝罪が、あまりにもショックだった。
心のどこかで何かの間違いであってほしいと、そう願っていた。あの噂は友哉がバラしたんじゃなくて、誰かがたまたま聞いていて、それで広まったんじゃないかって。だって、僕の唯一の親友はそんなことをする人じゃないって、信じていたから。
だけど、友哉の口から出た一言が、彼の罪を証明してしまった。秘密を暴露したことを、認めてしまった。
……胸に穴がぽっかりと空いた。一番信用していた人に、裏切られた。
その事実を頭の中で反芻するうちに。
……気づいた時には我ながら最低な言葉を、口走っていた。
「……お前なんか、僕の親友じゃない」
自分の声だと、最初は信じられなかった。
震えていて、けど怖いぐらい低い声音で。
短剣の如く鋭利な言葉が、空を切っていた。
「もう二度と、僕に話しかけないで」
その言葉が自分のものだと認識するより先に、僕は家に向かって走っていた。喉に焼けつく痛みと、目から溢れそうになる雫を必死に抑えながら。
その背中を、友哉が追ってくることはなかった。
運が良いのか悪いのか、次の日は土曜日だった。怒りの炎が弱まったのは日曜日。……流石に言い過ぎたと、自分を悔やみ始めた。
友哉が悪いことには変わりない。でも、絶交宣言をするには早すぎた。もっと詳しく彼の事情を聞いて、それから判断すべきだった。そもそも秘密にしておきたい事柄を、信用しているとはいえ何の迷いもなく友哉に打ち明けた僕自身にも非があるんじゃないか。そう考えるようにもなった。
自室の窓に降りつける大雨。そのとめどない音と呼応するように、胸の騒めきも収まらない。友哉のことは許せない。でも、仲直りもしたい。こういう時はどうするべきだろう。ベッドで横になりながら頭を悩ませた。
でも、友哉もきっと同じ気持ちだろう。
早くて今日か、少なくとも明日学校でまた謝りに来るかもしれない。友哉はたまに適当なところがあるけど、真面目な場面ではちゃんとする人だ。その時には、僕も言い過ぎたと謝ろう。そして、彼が暴露するまでの経緯を詳しく聞いてみよう。
そう思い至って、僕は溜息を漏らしながら、上体を起こした。
……その時だった。
急に勢いよく、母が部屋の扉を開けた。
「ちょっと……勝手に入ってこないで──」
煩わしく感じて、軽くあしらおうとする僕。
けど、すぐに言葉を飲み込んだ。母は息を荒げていて緊迫した表情を浮かべていた。そこに見え隠れする感情は、少なくとも喜ばしいものじゃない。僕はすぐに察した。……この要件、ただごとじゃないと。
息を呑んで、改めて母に問うた。
「……どうしたの?」
微かに首を左右に動かしながら、母は震える口をゆっくりと開き、言った。
……その言葉の意味を理解するのに、一分ぐらいかかったと思う。
最初は理解できなくて、現実味がなくて、何度も反芻して、それでも信用できなくて、何度も何度も耳にした言葉を頭の中で繰り返した。
そうしてやっと、返すべき言葉が思い浮かんで……母と同じ震える声で、問うた。
「……本当なの? それって」
母は、顔をくしゃくしゃに歪めて、一度だけ大きく頷いた。その反応を見た瞬間、全身の力がふっと抜けて、膝から崩れ落ちた。
六月の雨が強い、日曜日の夕方。
僕の唯一の親友が、命を落とした。
自宅付近にある橋での出来事だった。
手提げバッグを持った十歳前後の少年──友哉が足を滑らせて川に転落してしまったのだと言う。
雨によって川の勢いが強くなっていたこと、友哉が金槌だったこと、そして彼が溺水反応を起こしてしまったこと。これらの不運が立て続けに重なったことで、誰にも気づかれないまま溺死してしまった。たまたま通行人が川に傘が浮いているところを見つけて、事故が発覚したものの、友哉の一命を取り留めるには遅すぎるタイミングだった。
これは後に分かったことだけど、友哉のバッグの中には、折り紙の紙吹雪などが詰め込まれたお菓子の箱が入っていたという。箱の底には折り紙のバネで繋げられた手紙が貼り付けられていて、こう書かれていたらしい。
『本当に、ごめん』
そのことを警察の人から聞いた途端、絶交宣言をしたあの日から我慢していた涙が、耐え切れず溢れ出てしまった。そして、何であんなことを言ってしまったんだろうと自分自身を心の底から呪った。
友哉はあの日、朝早く、もしくは正午辺りに僕の家に謝りに行こうとしていたのだ。
僕らが親友となるきっかけを作ってくれた発明品。それを彼なりの技術を駆使して再現したものを、鞄の中に詰め込んで。
僕は恨んだ。過去の自分を、心の底から恨んだ。
僕が、殺したんだ。
僕が友哉を、追い詰めた。
僕が友哉を雨の中誘い込み、殺したんだ。
そんなするだけ無駄な後悔を。
入れ墨の如く刻まれた、罪の意識への弁解を。
いつまでも、いつまでも、し続けた。
気づけば僕は、不登校になっていた。
あれから二年間、学校を休み続けた。普通に学校に通っていれば、今頃六年生として最後の学校生活を満喫していたんだと思う。
でも、僕はそうしなかった。そんな日々を謳歌できる権利なんて、どこにもないと自覚していたから。
先生は優しかった。僕が不登校になっている間、教科書とテスト用紙だけ送ってくれて、僕の動向を陰ながら見守ってくれたから。
両親も優しかった。僕が不登校になっても、いつか立ち直れることを信じて、学校のやり方に賛同してくれたから。この二年間は、二つの存在の支えによって危うく形を保てていたようなものだった。
勉強は続けた。テストも解いた。
それでも、立ち直れるほどの気力は、いつまで経っても湧かなかった。
何かをしようとする度に、友哉との記憶が蘇ってきて、それに付随して罪の意識も這い寄ってくる。頭を抱えたくなるほどの黒く淀んだ感情が、常に僕の心に侵食し続ける。おかしくなりそうな日常だった。
それでも何かしなきゃと思って、リハビリみたいな感覚で勉強を続けた。配布された教科書やスマホの動画サイトを頼りに、覚えるべき事柄を記憶しようとした。
それでも解らない時があった。教科書を読むだけでは理解できなくて、スマホで調べても納得する解説が得られない。だけど、どこかで見覚えのある内容だった。
……昔、お祖父ちゃんに貰った本に書いてあるかもしれない。
そう思い至って、僕は本棚を漁った。たくさんの本で詰め込まれた棚の中は、一冊抜き出すだけでも崩れ落ちそうで、それでも早く疑問を解決したいという一心で棚を探った。
やがて、下から四段目のところを探し始めたところで、一冊の分厚い本が目に留まった。一気に脳内で溢れかえる祖父との思い出。間違いなく、探し求めていた本だった。
僕はその本を手に取り、思い切り抜き出した。
途端、勢い余ったせいか他の本も突っかかって、僕めがけて騒音と共に雪崩れ込んでくる。驚くあまり、その場で尻餅を突いた。
「いたた……」
辺りに散乱するたくさんの本。部屋一帯に広がる埃。尻を摩りながら、僕は咳き込んだ。
随分と酷い目に遭った。埃も凄いし、騒がしかった。親が来たらまずいし片付けないと。
そう思い、ふと目線を落とした、その時。
とある物体が、視界の中に映り込んだ。
それは、本来目的としていた祖父の本ではなく。
一つの、所々が萎れたお菓子の空き箱だった。
あれ、これって……。
特に深く考えることをせずに、僕はその箱を開いた。
中から飛び出すカラフルな紙吹雪と、白い綿毛。
そして、一言だけ記された、一通の手紙。
『おい! 何だよ、コレ……クッソウケる!』
蘇ってくる、親友の笑い声。胸の中で、中心から黒い泥がサッと退いていく感覚に陥った。
『誰かを笑顔にできるものを作れる人を目指しなさい』
同時に蘇る、祖父の言葉。
全身が一瞬だけ痺れて、頭の中が真っ白になって、そして思った。
……何をしているんだろう、僕は。
罪の意識に囚われるふりをしながら、恐怖から無意識に逃げていた。過去のトラウマから、逆行していた。
僕は、友哉に謝りたくて……笑顔にしたくて、このみすぼらしい発明品を作った。友哉も、僕に謝りたくて同じように発明品を作って、持って行こうとした。
なら、いま僕がすべきことは、既に示されているはずじゃないか。そんなことも気づかずに引き籠って……愚かしいにも程がある。
僕は、友哉と──親友と仲直りしないと。誰が悪いとか関係ない。お互いに笑い合って、はしゃいで、お互いの「楽しい」を共有したあの日常を取り戻さないと。
でも、どうやって彼に会おう。
直接、仲直りするにはどうすればいいだろう。
いや……迷うな。
それを解明するために、勉強というものが、発明というものが存在するんだろう?
それだったら、僕が今するべきことはただ一つ。
「ちょっと、どうしたの? 大きな音したけど大丈夫?」
ドア越しに聞こえてくる、母の言葉。あまりにもちょうどいいタイミングだった。
僕はずれた眼鏡をかけ直し、重たい足を引き摺って、扉の前に向かう。
そして、小さく深呼吸して、ドアを開けた。
最初に目にしたのは、母の驚いた表情。廊下の温かい色の電灯。久々に見る母の表情に少しだけ怖気づいたけど、やがて覚悟を決めて口を開いた。
「……お母さん。僕、心に決めたことがあるんだ。聞いてもらっても、いいかな」
それは、小学生の時に掲げた最後の目標。
今後、自分の存在を形成することになる永遠の課題。
そんな傍から見たら夢物語みたいな宣言を伝えきった時、母は口を両手で押さえて涙を流した。小学校卒業も近い、冬のことだった。
……そうして、今に至る。
懐かしく、そして人生の分岐点になった、小学生の思い出。それを噛みしめながら僕は青空を見上げている。ここまで、本当に長い道のりだった。
あれから勉学を重ね、有名大学を首席で卒業した僕は一つの実験成果を確認しようと、広い平原の真ん中に立っていた。
当時の稚拙な発明の技術を、せめて実用化できるレベルまで上げようと、工学部で機械技術などを学んだ。それに並行して、心理学や民俗学、人類学など必要な学問を片っ端から浚っていった。自分の目標を果たすには、発明を極めるだけじゃ駄目だ。もっと成功率を上げるために、関連するものは全て習得しようと、ここ数年勉学に集中した。その成果が、今ここで表れようとしていた。
「いやぁ、いよいよですね。光先輩」
ふと後ろから、自分の名前を呼ぶ声がかかる。大学で研究を共にし、今回の実験も全力でサポートしてくれた後輩が、興奮した様子でこちらに歩み寄った。
「調子はどうですか?」
「万全……と言いたいところだけど、もう心臓バクバク。やっぱ初めての試みだから緊張しちゃって……」
「ははっ、ですよねぇ。しかし、これで成功したらノーベル賞ものですよ」
後輩くんは、空に目を向ける。
「……死者の世界の存在証明、及びその往訪実験。ついでに装着型人間飛行機『雛』の実用テストも同時進行。先輩、よく話してましたよね。これらを実現することが小学校の頃からの夢だって」
僕は微笑んで、一度だけ頷いた。
人間飛行機はともかく、あの世の実在に向けて研究や捜索を進めた時は教授や一部の学生に馬鹿にされた。夢物語だと揶揄された。それでも、めげずに頑張り続けた結果、今この場所にこうして立っている。ようやく、目標に向けた最初の一歩が踏み出せる舞台が整ったのだ。
でも、一つ勘違いされている。さっき「ノーベル賞ものだ」とか期待されたけど、別に僕は社会の発展や研究分野の拡大だとか、世の中の役に立ちたいわけじゃない。
僕は、たった一人の人間を笑顔に戻したいから、研究に勤しんだんだ。
人々を笑顔にしなさい──祖父から託された願いを結局蔑ろにしちゃったけど、これだけは譲れない。残念だけど、僕が笑顔にしたい人は、この世界でたった一人しか存在しないのだから。
僕の後方に立つ、白いテント。そこで実験の準備をしていた大勢のメンバーのうち一人が、ぐっと親指を立てた。……いよいよだ。覚悟を決めるように、両手で頬を叩いた。
「では、幸運を祈ります」
軽く会釈をして、後輩がテントの方へ向かっていく。その背中を一瞥した後、僕は特製のゴーグルを装着する。そして、腰のベルトから手元に伸びる二つの赤いスイッチを、両親指で力強く押した。
ごうっ、と背中で轟く噴出音。全身に行き渡る振動。ジェットの点火を肌で感じたのを合図に、肩甲骨を大きく動かす。それに応じて、背中の鉄製の翼が大きく展開される。背中の筋肉の動きに合わせて作動する人工翼。気分はアメコミのヒーローだ。
『人工翼、ジェット、ナビゲーションシステム……いずれも問題ありません』
耳に取り付けた無線のイヤホンから、安全を確認した研究員の声が聞こえてくる。「了解」と一言返し、上空を凝視する。目指すは、空に浮かぶあの白雲の中。長年の研究の中で微かな幽体反応の集合を確認できた、未知の世界の玄関口だ。
ここからは、常識は通用しない。……気張れ。
『飛行、開始』
合図と共に、更に強くスイッチを押す。途端、勢いよくジェットが噴射し、身体が高く上昇した。防護服を着ていても全身に降りかかる重力。そんなことなどお構いなしに、ぐんぐん上へ上へと突き進んでいく。
よし、とりあえず『雛』に関しては異常なし。あとはあの白雲に突っ込むだけだ。
ゴーグルのレンズに、様々な情報が表示される。高度、座標、風速、目的地への照準など。それらの情報を頼りに、風の動きなどを読みながらひたすら上昇していく。
やがて、地上ではあんなに遠かった雲が、今では空中に聳え立つ要塞の如き巨大さで、目前に迫っていた。無線で研究チームに雲への接近を伝え、僕は雲の中へと進んでいった。
動画を観て予習した一般的な雲の内部は、当然ながら霧がかった山間のような光景だった。けど、出発前に覚悟を決めていたように常識とはかけ離れた光景が、そこには広がっていた。
顔に降りかかる水蒸気。慌ててレンズを擦ると、大きな光の粒が周囲でパチパチと瞬いていた。遠くの方では、鬼火を連想させる青白いいくつかの靄。あまりにも不可解で謎めいた景色が、そこには広がっていた。
嫌な予感がして、ふとゴーグルのナビゲーションに意識を向ける。座標や高度を示す数値にエラーが生じている。更なる不穏な予感が脳裏をよぎった。
その刹那。右翼で大きな衝撃と痺れが生じて、バランスが崩れた。ジェット噴射と身体の動きで何とか体勢を整えて、目を向ける。そこには、機体の殆どが大破し、切断面から電流が流れた、無惨な右翼の姿があった。すぐに察する。光の粒子の一部が、翼を掠ったのだろう。
どうしようか。そう思考を必死で巡らす最中。
どこからともなく、強い気流が僕の身体を煽った。
「ぐっ……!」
歯を噛みしめ、全身に力を込める。しかし、無駄な抵抗は虚しく、右へ左へと身体が横回転し、完全にバランスが崩れてしまう。ジェット噴射もままならない。このままでは……墜落する。
ぐわんぐわんと、激しく回転する視界と音。
脳を激しく揺さぶられて、僕は気を失ってしまった。
「……じ、えいじ……」
僕の名前を呼ぶ声。
懐かしい、少年の声。
段々と覚醒していく意識の中、僕はゆっくりと目を開いた。視界の先は、ぼやけている。どうやらゴーグルのレンズが破損してしまったらしい。早く眼鏡を……確か防護服のポケットの中に……。
「ちょっ、無理するな。眼鏡か? その中に入ってんだな? 取ってやるよ」
目の前にいる、少年と思しき人影がそう言って、お腹のポケットをガサゴソと探り始める。それがやけにくすぐったくて、ついフフッと笑ってしまう。
それにしても、この人の声……不思議だ。
ふわふわとしていて、どこか温かみがあって、それでいて懐かしい感じがする。この人、誰なんだろう。そもそもここは何処なんだろう。
「お、眼鏡見つけた! ……ん? 何だ、この箱」
何かに気づいた様子の人影は、またポケットを漁り始める。不意に中の荷物が減ったせいでお腹の辺りで空虚感を覚える。
待てよ? 箱ってもしかして……。
「ちょっと待って! それは、いてて……」
激痛を堪えながら上体を起こし、静止しようとする。ただ、もう遅かった。
視界は相変わらずぼやけて上手く視認できない。だけど、箱から出る発射音とオルゴール音が、目の前の彼が箱を開けたことを証明していた。
オルゴールの旋律は、かつて親友と遊んだゲームのエンディング曲。独特な発射音は、カラフルな紙吹雪とバネで繋がれたメッセージプレートが飛び出す音。
そして、プレートに刻まれた文章は……。
「…………」
僕と人影との間で、長い沈黙が流れた。他人に見られた気まずさ、そして開けられた絶望感。あの箱は、一度切りしか機能しないのだ。
「あ、あの……」
沈黙に耐え切れなくなって、僕は声をかけようとする。
その瞬間。
不意に人影に、強く抱きしめられた。
「えっ」
思わず声を上げる。でも、それを機に全てが分かった。昔、親友の家に遊びに行った時に漂っていた、どこか安心する麻世家特有の匂い。
眼鏡を早くつけていたら判ったのかもしれない。気づくのが遅れたことを、後悔した。
何故なら、人影の正体は──。
「……ずっと、謝りたいと思ってた。もう二度と、謝れないと思ってた」
震える声で、人影は──友哉は言った。
「……本当に、ごめん。おれ、あの時人として最低なことをした。お前の信頼を……裏切った。マジで親友失格だと思う。本当に……ごめんっ」
ああ、そうだ。やっぱりそうだ。
僕は、成功したんだ。友哉に、会えたんだ。
嬉しくて、苦しくて、悲しくて、まるで子供時代に逆行したように情けなく泣きじゃくった。
「いいんだ……いいんだよっ。僕もあの時、言い過ぎた。親友じゃないなんて、嘘ついた。本当はお前の横にずっといたかったのに……その場の怒りに身を任せて……お前を傷つけた。本当にごめん……ごめんっ」
二人して、わあわあと泣き叫んだ。ここが何処か解らないけど、誰もいないことは確からしく、ただ延々と二人の鳴き声が木霊し続けた。
全くもう……笑顔になりたかったのに、馬鹿みたいに泣くことになるなんて。本末転倒じゃないか。そう思いながらも、口端が自然と緩んでいることを自覚していた。
木箱のオルゴールは、段々と曲の速度が緩やかになっていく。自分がここ数年で培った技術で作り上げた、発明品第二号。
小学生時代に名付けたこの作品の名は。
──『仲直り機』。
了