【感想】NHK 歴史探偵「徳川御三家」を視聴しました
2024年4月24日(水)22:00~22:45 歴史探偵「徳川御三家」を視聴しました。
<始まる前に>
徳川幕府初期は、いろいろ基礎固めで大変な時期ですね。
そういう意味では家光は大したものです。
<NHKのあらすじ>
徳川御三家。家康の息子たちが初代を務めた尾張・紀州・水戸の3つの藩だ。
3代将軍・家光との間で繰り広げられた壮絶な駆け引き。
徳川を支えた御三家誕生の秘密に迫る。
■プロローグ
●スタジオで
徳川御三家について調査です。
佐藤所長「ものすごく有名だけど詳しくはあまり知らない」
将軍家に跡継ぎが居なかった場合、御三家から将軍を出していました。
意外な一面があったことが分かってきました。
御三家の成り立ちについて
・尾張藩:義直
・紀州藩:頼宣
・水戸藩:頼房
家康の晩年の子供だったので、秀忠とは20歳ほど離れていて、年が近かったのは家光です。
厄介な存在だったのが、御三家の3人でした。
■尾張藩・義直
●義直どんな人物だったのか?
徳川美術館
・並木昌史さん(徳川美術館)
徳川家康自筆 おかめ・あちゃ宛の手紙
義直の病状が回復に向かい、「めでたく」と、これを見ると3回繰り返しています。
義直が17歳のとき、父から信じられないプレゼント、なんと新築の名古屋城をもらいます。
・原文彦さん(名古屋城調査研究センター)
石垣を見ると、丸やお団子、ひょうたんの印があり、大名が自分が切り出した石垣だと示すためにつけたもの。
お城だけでなく、城下町までセットで贈ってしまいました。
西の丸御蔵城宝館
「擬宝珠」(ぎぼし)です。
銘に慶長七年とあり、名古屋城築城は慶長15年のこと、なぜ擬宝珠が存在するのでしょうか。
元々は、清須の城下町にあったもの、つまり街をそのまま引っ越しさせたのです。
住民約6万人が引っ越ししました。
原さん「なんで自分はここに置かれたんだ、それはやはり父の期待があるからだ、最大限答えていかなければならない」
徳川家を背負うものとしての強い自負が生まれていきます。
●元和9年(1623)
家光が3代将軍に就任します。
新しい将軍に対し義直は対抗心を見せるようになります。
●熱田に御殿
御殿があったのです。
熱田東御殿
広さは1万平方メートル、テニスコート40個分の面積です。
ポイントは場所、わざわざ海を埋め立てて作りました。
「東海道の結節点で唯一海路だったのです」
そこで人々が目にしたのが、海に浮かぶかのような壮大な御殿です。
オランダの商館長は、まるでお城のようだと称えます。
「権威の象徴、海に浮かべるような城を建てるのは斬新でした」
●江戸での家光
義直への対応を迫られることになります。
「江戸幕府老中連署奉書写」
尾張藩に対し、これ以上御殿を作らないようお達しを出します。
しかし義直はそれを無視、領内の城を改修しました。
そこで家光は、揺さぶりをかけます。
寛永10年(1633)11月家光は病を患いました。
義直も尾張から駆けつけます。
しかし、家光は義直と面会せず名古屋へ帰るよう命じました。
・野村玄さん(大阪大学)
「他の大名をコントロールできなくなる、自分が弱っているからこそ強く出て、周囲に示したかったと思います」
●関係修復の機会
翌年、寛永11年、家光が名古屋に立ち寄ることが決まったのです。
義直の接待計画とはどんなものだったのか?
名古屋城本丸御殿で復元されています。
1回の接待のためだけに、本丸御殿の大改修を行います。
「上洛殿」家光の接待だけのために作られた部屋です。
金や漆がふんだんに使われた豪華なものです。
壁や襖に描かれているのは、中国の伝説の王や皇帝たち。
「あなたを迎えるために御殿を建てました、あなたのためにここまでお金をかけました」
実はもう一つ仕掛けが施されていました。
奥には特別な部屋があります。
「さっきはすごい豪華でしたが、ここは質素でこじんまりしています」
義直の家光に対する対抗心が込められています。
「本当にもてなしなのか、家康公が使った由緒正しい建物があるのだ、おまえよりは近い存在なんだと嫌味ったらしく見せた可能性もゼロではない」
●スタジオで
河合先生「家光も家康に可愛がられていました」
こちらは、家康の肖像画、義直自身が書いたものです。
佐藤所長「白髪のおだやかなおじいちゃんというイメージ」
河合先生「関ヶ原の戦いの後にできた子で、家康が59歳でした」
佐藤所長「家光に本気で逆らおうとしたとは思えないです」
続いて紀州の頼宣です。
■紀州藩・頼宣とは
●紀州東照宮
108段の階段を登った先に頼宣の実像に迫るヒントがあると言います。
・西川秀大さん
頼宣の気質を物語るものが彫られていました。
茶色い鳥がハンティングしている鷹狩り
専用の狩り場を作ってしまうほど武芸にのめりこんだ頼宣
大坂の陣
家康から贈られた鎧と陣羽織が収められていました。
頼宣14歳
父からもらった鎧を身に着け、武功を立てようとします。
先陣を務めたいと訴える頼宣、家臣たちは遺留します。
「14歳は二度と来るものか」
頼宣に与えられた任務は後方支援で戦国の終わりを告げました。
●紀州和歌山
元和8年、地士豪族60人を召し抱えたのです。
全国には40万人の牢人があふれ、不穏分子として幕府から警戒されます。
頼宣は牢人たちのシンボルになっていきました。
和歌山城の大改修、船を500艘浮かべたり、実は鯨漁でした。
・小山譽城さん(和歌山信愛大学)
「船団で鯨を追いつめていき、最後にとどめを刺すわけですから、役に立つ水軍にしておかねばということです」
警戒しなければならない相手になっていました。
●関係悪化の事態
正保2年、中国からの援軍要請です。
何度も送られてくる明からの援軍要請を家光は黙殺を貫きます。
・野村さん
「海をわたって戦争をする実力はない。その不満はどこに行くんだ、メリットはない」
一方で、戦いたい者たちは、牢人たちです。
「大君言行録」
頼宣も援軍に賛成したと書かれています。
小山さん「幕府に対する政治への不満、この人だったら分かるんじゃないか、英雄みたいな感じで期待されました」
●頼宣の真意とは?
和歌山県の根来寺へ
・本多元成さん(和歌山県岩出市)
根来は、戦国時代、時の権力者と戦いを繰り広げます。
こちらは火縄銃の流れ弾があたったところです。
豊臣秀吉も苦しめました。
紀州には根来のような勢力が各地に存在し、「難治の国」と呼ばれます。
戦乱の火種が全国に広がる恐れがありました。
小山さん「強固な領国をつくり、一番の屋台骨になりたい。将軍家をおもってのその一言に尽きます」
●スタジオで
佐藤所長「戦国時代に戻りかねない不安があったのですね」
藩主としては別の一面もありました。
みかん、和歌山の特産品で、頼宣が奨励しました。
河合先生「山がちの土地で、商品作物を開発することでたくさん生産する体制を作りました」
河合先生「みんなから慕われました」
最期は水戸藩の頼房です。
■他の2人とは違う関係!?水戸藩・頼房
●茨城県立歴史館
・永井博さん
頼房と家光は、兄弟同然だと記されています。
年が1つしか違わない、家光としては頼りにしていました
「正成公御傅ノ内聞書」家康の遺言書
尾張、紀州をあげていますが、水戸はでてきません。
実は頼房の時代、水戸藩は同格とみなされていませんでした。
石高は尾張、紀州の半分程度でした。
家光にとって警戒する必要なく年も近く、心を許していきます。
黄金4千、狩りで仕留めた極上のつるを贈ったり特別の存在でした。
●小石川後楽園
幕府が頼房に与えた水戸藩邸の一部でした。
・西山礼美さん
「将軍腰掛け石」
家光は壮大な計画を思いつきます。
「次は、水戸城を石垣の城に作り変えるぞ」
名古屋城、和歌山城も石垣づくりでした。
一方、水戸城は土作りの城でした。
そこにはある狙いがあったといいます。
・藤井達也さん(水戸市立博物館)
「水城金鑑抄」水戸城を石垣にする計画が出てきます。
藤井さん「水戸の頼房の権威を見せつける重要な役割があり、家光が配慮を示した可能性があります」
一方頼房は「今の水戸城で満足なのに」
関東ローム層、わざわざ石垣にする必要はなく、膨大な費用がかかります。
●石垣化計画
沼津へ
・鈴木裕篤さん
水戸藩の石丁場の位置がはっきりわかったのです。
「水」という文字が彫り込まれていることが分かります。
沼津から船で運ばれ、水戸城の石垣として使われるはずでした。
ところが、水戸城は今も土作りのままです。
なぜうまくいかなかったのでしょうか?
「常陸国全図」
海から水戸にたどり着くためには那珂川を通らなければいけません、ところが那珂川は難所でした。
途中で行き詰まってしまったのではないかと考えられています。
藤井さん「この海域が本格的に使われるようになったのが17世紀の中盤頃からです」
失敗に終わった水戸城の石垣化計画、そこからは御三家との関係に悩む家光の苦悩が見えてきました。
●スタジオで
佐藤所長「警戒心がないからバックアップしたというのは人間としてよく分かります」
河合先生「家光の時代は御三家という言葉はありませんでした。2代水戸藩主・光圀のときにシステムが出来上がりました」
佐藤所長「御三家というシステムを家光が作ったとも言えますね」
紀州から吉宗、家茂、水戸から慶喜が将軍になっています。
河合先生「御三家のシステムが長期政権を支えたと言えるのです」
ーーーおわりーーー
次回は「南北朝の若君たち 北条時行と北畠顕家」5月1日(水)22時(再)放送です。
■感想
家光と御三家の関係がよくわかりました。
この御三家を江戸から遠ざけたのは先見の明というか、経験則というか、だれの施策だったんでしょうね。
お家騒動の火種になりかねないので疎遠にしたいけど、跡継ぎ問題が起きた時、頼りたい、というジレンマです。
考えたのは家康しかいないと思うのですが、後世それをシステム化したのは素晴らしいです。
それにしても、尾張藩はすこし毛色が違うとはいえ、水戸藩、紀州藩は徳川統治の歴史は浅く、苦労があったのではないでしょうか。
家光に抗ったのではなく、藩内の統一が最優先だったんでしょう。
それに、一番力のあった尾張藩から将軍が出ていないのも面白いです。
力がありすぎて嫌われたのかな。