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【感想】NHK 歴史探偵「天下統一 秀吉の一夜城」を視聴しました

2022年3月2日(水)22:30~23:14、NHKの歴史番組「天下統一 秀吉の一夜城」を視聴しました。

<始まる前に>

1か月ぶりの歴史探偵、秀吉の有名な一夜城が登場ですね。
どんな謎が隠されているのか、楽しみです。

<NHKのあらすじ>

秀吉の天下統一の総仕上げに立ちはだかる巨大要塞・小田原城。
驚きの防御力を再現!
秀吉の対抗策は伝説の一夜城。
現地調査から見えてきた秘められた戦略に歴史探偵が迫る

■プロローグ

小田原城、北条氏の巨大要塞です。
鉄壁の守りの再現に挑戦しました。
対する秀吉は、伝説の一夜城で対抗します。

■スタジオで

河合先生「東北は秀吉が勝てば一気に秀吉側につくというものでした」
1590年、北条氏は関東一円を支配していました。
大河ドラマの鎌倉時代の北条氏とは全く違います。
小田原攻めの状況は、秀吉20万に対し、北条氏5万圧倒的な差でした。
とんでもない壁が小田原城です。

■小田原へ

天正十八年(1590年)4月、豊臣秀吉軍が小田原に集結します。
しかし秀吉が見たのは予想外の光景でした。
神奈川県小田原市の中心部にそびえるのが小田原城です。
・諏訪間順さん(小田原城天守閣館長)
現在の小田原城は復元したもので北条氏のものとは違います。
1km離れた場所にやって来ました。
藪の中を入っていくとV字型の堀の跡がありました。
深さ10m、高さ5mの土塁が設けられていたといいます。
総構です。
つまり、小田原城は、鉄壁な守りの長期戦が可能な城でした。
総構、当時の姿を再現しました。
「障子堀」といわれる土の壁で区切った堀です。
壁を脱出しようとすると、切り立った急斜面(60度)で秀吉軍は登れません。
斜面の肌はツルツル、関東ローム層、固く滑りやすいのが特徴です。
当時はこの再現したものの3倍ありました。
アリ地獄、袋のネズミ状態です。

■スタジオで

佐藤所長「副所長、体を張りましたね」
河合先生「梅雨時で水が溜まって更にツルツルでした」
実は、総構ができる前から、難攻不落の要塞でした。
河合先生「町や田畑も取り込んでいるので1~2年は籠城が可能だったようです」
佐藤所長「小田原攻めは無理ゲー」
それでは秀吉はどう攻めたのか?

■戦国時代の絵図

「小田原陣仕寄陣取図」
総構の外側を巨大なラインが張り巡らされています。
一体何でしょうか?
現場に盛り上がった場所があります。
・柳川泰久さん
戦国時代の秀吉が築いた土塁の跡で、頑丈に築かれています。
「御陣場御屋敷絵図」
城のように陣場を築いたのです。
秀吉は総構を上回る巨大な包囲網を築いていたのです。
・三浦正幸さん(広島大学名誉教授)
日本史上最大、空前絶後の包囲網でした。
「真田文書」
”とり一羽も抜けられまい、北条はさぞ慌てていることだろう”
完全封鎖されるとは予想されませんでした。
・小和田哲男さん(静岡大学名誉教授)
何年も包囲されたらという不安感はもっていたでしょう

■切り札登場

・佐々木健索さん(小田原市文化財課学芸員)
展望デッキに「石垣山一夜城」と書かれています。
3km離れた石垣山城にやって来ました。
なぜこの城が秀吉の切り札なのか?

■石垣山へ

草に覆われた壁のような斜面があります。
草を刈ってみると、立派な石垣が現れました。
野面積みという技法で積まれていました。
自然石をほとんど加工しないで積み上げる技法でした。
戦国時代、関東地方では石垣を備えた城はわずかでした。
本丸に移動します。
天守台です。
・金澤雄記さん(広島工業大学准教授)
復元図を描いてもらいました。
・三浦正幸さん
城としての見栄えは敵を圧倒していたのです。
圧倒的な軍事力、経済力を見せつけることで相手に戦うきを無くさせることでした。

■天正十八年(1590年)6月26日一夜城が完成

周りの木をすべて切れ、と秀吉は命令します。
完成と同時に周りの木を一気に切り払いました。
一夜で築城されたと北条側は肝を潰しました。
”秀吉は天狗か神かと恐れおののいた”『小田原北条記』
最後のトドメを刺したのが一夜城でした。
7月5日北条氏は降伏します。

■スタジオで

佐藤所長「ちょっと戦うだけむだかな」
河合先生「北条は外の情報は入ってこないのです」
敵に見せつけるためだけではなかったのでした。
自分の味方にみせつけるという意味もあったのです。

■さらなる野望

天下統一を果たした秀吉、
”明国をおとすことなど山が卵を潰すようにかんたんなこと”
朝鮮出兵を決めます。
20万あまりの軍勢を九州に集めます。
・ルイス・フロイス「日本史」
”大名たちは海を渡れば生きて戻ることはできないと怖気づいた。秀吉は異変に気づいた。”
出兵への不安が広がっていたのです。
新たな手段に出ます。
肥前名護屋城です。
この城をどのように使い、兵士たちを鼓舞したのでしょうか?

■肥前名護屋城

・堤英明さん(佐賀県立名護屋城博物館学芸員)
石垣の存在感は一夜城に似ています。
九州で初めての大規模な石垣、17万平方m、一夜城の約4倍でした。
・三浦正幸さん
石垣山のうまく行ったという成功体験、予行演習となった1つの原型となったといえます。

■もう一つの仕掛け

天守跡に登ってみると、周りが海に面しています。
秀吉は海に面していたことを重要視していたのです。
佐賀県立肥前名護屋城博物館
出陣のとき、兵士はこの城を見ながら日本を後にしました。
城は秀吉の原動力でした。

■スタジオで

河合先生「戦うためからみせるための城の転換期になりました」
岡山城の瓦には金の粧飾があり、金箔瓦といわれます。
姫路城が白く見えるのは、漆喰がたっぷりと塗られているからです。
佐藤所長「秀吉の手のひらにいる感じでした」

ーーーおわりーーー

次回は「歴史探偵 選 吉原遊廓」3月9日(水)放送です。

■感想

有名な石垣山一夜城の謎解明でした。
墨俣の一夜城とは違い、こちらは一夜で姿を表したことから名前がついたとか。
このような伝説が残るように、秀吉の城にかける思いは凄まじかったようです。
天下統一を成し遂げたのも城を重視したから、というのはうなずけますね。
ちなみに、石垣山城も肥前名護屋城も同じような形式だったことから、黒田如水(黒田官兵衛)が城構築を担当したんじゃないかといわれているようです。
明国征伐のために朝鮮出兵する話が出てきましたが、兵士が怖気づいたというのはちょっと違うんじゃないかなあ。
ただ単純に、異国に行くのが嫌だったんじゃないかと、それも朝鮮ですからねえ。
怖気づくというよりも、知らない場所へ行って戦って何を得るのかもわからないのだから、単に行きたくなかったんじゃないでしょうか。
特段、何もない野蛮なものが住む場所をわざわざ通って中国に到達できるのか、という不安もあったんでしょう。


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