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【感想】NHK 歴史探偵「天草四郎と島原の乱」を視聴しました
2023年5月24日(水)22:00~22:44、歴史探偵「天草四郎と島原の乱」を視聴しました。
<始まる前に>
印象は、キリシタンの暴動を明治時代以降、美化した事件としか思えないのですが、真実が解明されるのでしょうか。
<NHKのあらすじ>
キリシタンの反乱“島原の乱”。
今、その常識が変わろうとしている。
カリスマ天草四郎が見せた奇跡の謎を調査!
剣豪・宮本武蔵も撃退したキリシタンの秘密兵器とは!?
■天草四郎と島原の乱
■スタジオで
佐藤所長「島原の乱といえば、魔界転生という映画、深作欣二、沢田研二さん、とにかく怖かった」
原城では発掘調査が行われ、十字架、銃弾、砲弾など、戦いにまつわる遺跡がたくさん発見されています。
島原の乱についておさらい。
1603年江戸幕府を開き、およそ30年後1637年に島原の乱が起きました。
原因について調査したら、単純なキリシタンの反乱ではないことが見えてきました。
■戦いはなぜ起こったのか?
●原城跡へ
・中山和子さん(南島原市)
原城は、長崎県島原半島の南部、戦国時代に作られた山城です。
有馬キリシタン遺産記念館へ
原城跡から出土した十字架を展示しています。
戦いはなぜ起こったのでしょうか?
天文18年(1549年)、フランシスコ・ザビエルによって日本にキリスト教が伝わります。
救いを求める人達が次々と改宗し、キリシタンは30万人を超えました。
徳川家康は、慶長19年(1614年)、禁教令を発布、キリスト教を弾圧します。
「元和の大殉教図」磔にされる宣教師たち
これまで、キリシタンへの弾圧が原因となって起きたと見られてきました。
しかし、別の姿が見えてきます。
反乱の原因は重税だと訴える農民たち、島原の藩主松倉氏は厳しい年貢の取り立てを行なっていました。
・神田千里さん(東洋大学)
「飢饉だったのにキリスト教を捨てたことでバチが当たったと考えました」
一人の少年が現れます。
天草四郎は、神の奇跡を見せて回ったと伝わります。
『別当杢左衛門覚書』手のひらに卵を乗せると、聖書の一節が現われた。
さらに、天草から離島の湯島まで海の上を歩いて渡った。
キリスト教を認めることを要求し、原城に籠城します。
島原の乱は、宗教弾圧と悪政が重なった反乱だったのです。
■スタジオで
河合先生「どんどん税をとって金銭から家財道具、衣服を剥ぎ取ったりしました」
「教科書では島原・天草一揆とも表記されました」
天草四郎は、島原の乱のとき16歳でした。
首謀者は天草四郎ではなかった!?
■首謀者は天草四郎ではなかった!?
「山田右衛門作口書」右衛門作は四郎たちを裏切り幕府に投降しました。
山田右衛門作は、四郎ではなく、天草の牢人どもの企てで始まったと語りました。
キリシタン大名の小西行長が治めていましたが、関ヶ原の戦いで小西家は滅亡します。
・川村信三さん(上智大学イエズス会司祭)
キリシタン大名時代への回帰を目指したと考えられています。
「自分たちの幸福だった時代を同じ方向を見て一緒に生きた時代を懐かしむ気持があり、それに対してすごい重税を欠けられたという思いがあった」
棄教したキリシタンの農民たちを立ち上がらせるため、牢人たちはお告げに目をつけます。
預言の人物とされたのが天草四郎でした。
四郎をキリシタンの大将にしてもりたてよう、キリシタンに立ち返っていきます。
「捨てました、明日からやめますとはならない、四郎自身ではなく小西の旧臣たちが担ぎ上げた」(川村さん)
●天草キリシタン館
・平田豊弘さん(館長)
四郎の奇跡には秘密があったと言います。
『四郎乱物語』「めくらしの術」と書いてあります。手品、マジックです。
長崎に滞在した経験のある四郎は、外国人から技術を習ったと考えています。
●四郎がいた場所へ
四郎の家というのがここです。
「原城諸手仕寄之図」
四郎は、ここで戦の指揮を執っていたのでしょうか。
実は、指揮を取っていませんでした。
建物に入ったきり、姿を見せませんでした。
「天草四郎陣中旗」と呼ばれている旗です。
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原場本丸に教会があって、その中に掲げられていたと見られます。
四郎の家は教会として使われていたと見られます。
牢人たちは四郎をわざと姿を隠すことで、神格化したのです。
現実的な司令官であるよりも、超能力、一揆勢を守ることができる存在である必要があり牢人たちが演出したと見られます」
■スタジオで
佐藤所長「浪人たちにプロデュースされた」
河合先生「小西行長とか有馬晴信などキリシタン大名の領地で、セミナリヨという学校があり南蛮貿易も発展しその時代をまたという気持ちもあったのではないでしょうか」
河合先生「関ヶ原の戦いに参加した人たちもいました」
「四郎のお父さんは浪人のなかでも中心的人物でした」
「天草四郎陣中旗」の茶色く変色したところ、乱の最中についた血だといわれています。
意外な内情が見えてきました。
■一揆勢の意外な内情とは?
・大石一久さん(石造物研究家)
キリシタン墓碑で、作右衛門という人が、1610年に亡くなったというお墓です。
これは、キリシタンの村があったことを象徴しています。
墓碑は南側に集中し、北側ではほとんど見つかっていません。
つまり、北と南で信仰が大きく違っていました。
キリシタンと仏教徒、大きな選択を強いることになります。
安徳村の仏教徒たちは村を守るため、キリシタンと戦うことを決めました。
「村の存続を優先しました」(大石さん)
キリシタン側が動きます。
『勝茂公譜公補』寺院や神社を焼き払い、家に放火した。
キリシタンに改宗して巻き込まれざるを得なくなりました
キリシタンたち一揆勢は城内で、銃弾の鉛を溶かして十字架を作りました。
信仰の統一を図って、結束力を高めようとしました。
さらに、統制を高めるため、人質を取っていたこともわかっています。
「一枚岩ではない、複雑な民衆運動でした」(川村さん)
■寛永15年(1638年)1月1日幕府軍が総攻撃
戦いに巻き込まれた仏教徒たちは、戦うしかなく幕府軍を攻撃します。
一揆勢の死傷者17人に対し、幕府軍4千人、板倉重昌を討ち取りました。
一揆勢は大勝利をおさめたのです。
■スタジオで
佐藤所長「戦いに巻き込まれた仏教徒がいたのは初めて知りました」
河合先生「村長の判断でどちらにつくか決まったため、キリシタンの中にも積極的に戦いたくないという人もいました」
幕府軍にある有名な剣の達人が参加していました。
それが、宮本武蔵です。
「石をぶつけられて足に大けがをした」と残っています。
■幕府軍
「原城包囲陣型図」松平信綱は戦い方を根本的に見直します。
二重の柵を設け、海にも軍勢を並べ、包囲網に12万人の持久戦に切り替えたのです。
「兵糧攻めで不安は当然あったでしょう」(神田さん)
■一揆勢
ポルトガルに頼ります。
キリスト教の布教活動をあと押ししていました。
・服部英雄さん(中世史)
「籠城戦で勝利できたのは援軍がきたからで出島にポルトガル商館があり、助けてほしかった」
そしてついに、外国の船が現れます。
しかし、船からの攻撃は原城に向けられました。
やってきたのは、オランダ船でした
仕掛けたのは幕府軍、友好関係にあったオランダに働きかけ、心理的ダメージを与えようとしたのです。
「教えのうそに気づき、さぞや落胆するであろう」
さらに、幕府軍から訴状が届けられます。
「無理にキリシタンにされているものは助命する」
一揆に加わっていた仏教徒、約1万人が投降しました。
■寛永15年(1638年)2月27日総攻撃開始
幕府軍が総攻撃を開始、一揆勢が討ち取られていきました。
四郎にも最期の時が訪れます。
2月28日原城が陥落しました。
72体の遺骨が見つかりましたが頭部はほとんど見つかっていません。
原城の外にさらされたため、頭部がありませんでした。
■スタジオで
河合先生「知恵伊豆という有能な松平信綱がオランダ船をおくりました」
「天草四郎を許すというゆさぶりをかけています」
「亡くなった2万には人質が取られていて仕方なく戦う人もいました」
「翌年1639年、ポルトガル船の来航を禁止し鎖国しています」
ーーーおわりーーー
次回は「徳川四天王」5月31日(水)放送です。
■感想
天草四郎(益田時貞)って本当にいたのですかね?
出生も没年も不明だとか。番組内でも最期について一切語られませんでした。
偶像崇拝禁止のキリスト教が、偶像として天草四郎に仮託したと見ることもできます。
そして、四郎を見たとかの証言しかなく、生き延びた説があるとか、やっぱり存在を疑いたくなります。
いわゆる現代になって、小説や映画によって膨れ上がったヒーローの一種でしょう。
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この島原の乱の原因は、悪政をきっかけとした反乱であるのは確かなようで、キリスト教徒への宗教弾圧ではなく、一揆の側面があったということでしょう。
この番組ではイエズス会の司祭まで登場し、キリスト教擁護の色が濃いのが怪しかったです。
この島原の乱がきっかけとなり、キリスト教が禁教となったのは、徳川政権に先見の明があったということです。