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【感想】NHK 歴史探偵「細かすぎ 毛利元就」を視聴しました

昨日2021年6月23日(水)22:30~23:15、NHKの歴史番組「歴史探偵」12回『細かすぎ 毛利元就』を視聴しました。

この番組は、今まで放送していた「歴史秘話ヒストリア」の後番組です。
今回のテーマは、中国10か国を治めた成功の秘けつを徹底調査です。

毛利元就は少し時代が早すぎた武将で、伊達政宗は少し時代が遅すぎた武将だと思っています。
結局、タイミングが重要ということと、地の利も影響したんだろうなあと勝手に結論出しています。
元就も正宗も京都からは遠かったです。
東海地方の三英傑が地の利、時代的にベストでした。
ということで、結果的に地味になってしまった毛利元就ですね。
でも、明治維新で長州が天下をとったので、良かったんじゃないでしょうか。

■スタジオで
「毛利元就って、ちょっと地味」(佐藤)

広島県の小さな領地からスタート10カ国を収めるほどの大大名になった元就。
戦国大名で毛利元就以外にいないほどの成功を収めたのはなぜか?

『自分のことであるにもかかわらずわからない』という言葉を残しています。

毛利元就

紙本著色毛利元就像(毛利博物館蔵) Wikipediaより引用

■毛利博物館へ
とっておきの史料をお見せします。
『毛利家文書』直筆の書状です。
・成人した輝元へのアドバイス
『お酒は小さな椀で1、2杯に留めるようにしなさい』と書かれています。それも、直接ではなく、一緒に住んでいるお母さんに間接的に伝えているのです。
・隆元宛の手紙では、吉見という戦国武将が訪問したときのこと、
翌日の朝食を出す予定でしたが、今日の夕食から出しなさいと指示しています。
細かい!
大名クラスになると、やれといったら任せてしまうのが普通でしたが、元就はそうではなかったのです。

■200状の書状を科学的に分析
データサイエンスを使って様々な文章を読み込みます。
どんな言葉が使われているのか調べます。
その結果、心得、存分、分別(良い、悪いを考えること)が多かったのです。
114語が人を諭す言葉を使っていたのです。
危機感という毛利家の置かれた状況にあったのです。
決定的なミスとか小さなミスを重ねていくことを恐れていました。

■郡山城跡を見てみると
本来の尾根を人工的に平らにして造成していました。
これは郭(くるわ)といいいます。
郭を全く違う目的で使用、それは、家臣は城に住むこと、でした。
一般的に家臣は自分の領地で暮らすのが普通でした。
心配性だからこそ常に迅速な情報収集してスピード化を狙っていました。

レーザーで調査したところ、元就らしい遺構が見つかりました。
通路のあとが多数残っていました。普通の武将なら作らないものです。
なぜ道を作ったのか、実際に歩いてみました。
郭を結ぶために作られており、城全体に広がっていました。
連絡を取りやすい、頻繁なコミュニケーションで結束を高めました。

■スタジオで
(河合敦氏)3本の矢の話は、実はフィクションでした。
「息子って、音波が耳に入らない構造になっているね」(佐藤)

隆元に送った手紙、長さ10m、長男の気持ちに寄り添った内容で、手紙の9割を締めていました。

■厳島の戦い
陶晴賢軍2万人、元就軍4千人と5倍の戦力と戦わなければならなかったのです。
宮島は、険しい山の覆われている島です。
戦場になったのは、野球場2つ分の広さです。
ここに2万居られるのでしょうか。
本当に陶晴賢軍は2万人もいたのでしょうか。
推測では5000人前後ではなかったかと考えています。

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毛利家文書『芸州厳島御一戦之図』

■山田家文書
毛利が討ち取った兵の事を記述した書状です。
「同」というのは、譜代の家来という意味、周防の兵1カ国の兵だけでした。
4カ国ではなかったのです。

■スタジオで
(河合敦氏)2万というのは軍記物に乗っていたものだったので、怪しいものでした。

■奇襲攻撃
陶は、五重塔の陣を構えます。
毛利は、陶の背後を突く作戦でした。
2kmほど先に見えるのが地御前ですが、陶の本陣が丸見えでした。
これでは奇襲になりません。
地御前ではなくて、草津という場所であったと考えています。
草津に行ってみました。
陶に気づかれずに出撃するのには絶好の場所でした。

■実証開始
ヨットマンの皆さんに実験してもらいました。
当時の船の条件にして行いました。
最高速度5ノット、時速10kmの速度になりました。
時速3kmを大きく上回っています。
潮の流れ、追い潮の流れがあったのです。
草津から宮島に追い潮が流れていたのです。
元就は合理的です。恐るべし、元就

■スタジオで
陽動作戦です。
地御前にも兵を置いていたのです。
陶としては、兵がいるから大丈夫だと思うでしょう。
「所長、甘い!」
元就、こんなもんじゃなかったのです。
奇襲を行うのにどうやって夜の山道を進んだのでしょうか。
分かれ道があります、迷いながら進むのは大変です。
ガイドの横田さんの案内で進みます。
1時間歩くと、厳島神社の鳥居が見えてきました。
1655年、元就は大勝利を収めました。
熟知した人が案内したことは間違いないでしょう。
厳島神社にその手がかりがありました。

■房顕覚書
厳島合戦より28年前の出来事が描いてあります。
元就より前に、博打尾越、そのことを神官房顕が知っていたのです。
元就は、寄進を通して、神社との結びつきを強めていたのです。
厳島合戦の5年前のことです。
元就は一戦を予想して寄進していたということです。
先見性を持っていたのです。
実は、戦いの翌年から寄進していました。
厳島神社の天神社、反橋、本殿までも寄進していたのです。
自分の領地を守るために、隣の国が安泰でなければ、守るために強大化していったのです。
生き残るためにがんばっていたら結果として生き残れました。

ーーおわりーー

次回の歴史探偵は「信長・秀吉・家康 神への道」
2021年6月30日(水)22時30分~

■感想
中国地方というのは利用できる土地が少なかった。
山陽新幹線ではトンネルだらけで、風景はあまり面白くありません。
海に山がせまり、米が取れる土地が少なかったとみられます。
そのため、村上水軍などの船が発達しました。
この地方は海を制したものが残りました。
番組では毛利軍が潮の流れを読んで有利に戦ったとしていますが、陶も水軍を活かしていたはずなので、それほど差はなかったんじゃないでしょうか。

今回も、データサイエンスが出てきましたね。
前回と一緒で自然言語処理でしょう。
データサイエンスっていうくらいなので、データが命ですよね。
日本史の場合、史料をデータに変換するのが大変そうですね。
なんせ、流し字を解読するだけでも大変です。
もしかしたら、画像をテキストデータに変換しているのかな。
その辺の裏事情のほうが興味があります。


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