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【感想】NHK 歴史探偵「光る君へコラボスペシャル」を視聴しました
2024年1月2日(火)21:00~21:59 歴史探偵「光る君へコラボスペシャル」を視聴しました。
<始まる前に>
今回の歴史探偵は、7日よりはじまる「光る君へ」の番宣SPです。
「光る君へ」を見る方には予習としてちょうど良さそうです。
<NHKのあらすじ>
大河ドラマ「光る君へ」と「歴史探偵」がコラボ!
吉高由里子さんと柄本佑さんをゲストに迎え貴族の恋や仕事など平安の謎を徹底調査!
これを見れば大河がもっと面白くなる!
■光る君へコラボSP
ゲストは紫式部(まひろ)を演じる吉高由里子さん、藤原道長を演じる柄本佑さん。
●スタジオで
光る君への衣装がスタジオに登場
吉高さん「大変重くてオブジェ状態」
その撮影現場へ
■潜入!大河の収録現場
まひろが自宅で書を書くシーンが収録されています。
吉高さんが書いたものが、まひろが書いたものとして直接登場するようです。
俳優自身が字を書くことを大切にしているのです。
ただ実際の紫式部が書いた字は残っていません。
・根本知さん(書家)
紫式部、道長の筆跡もデザインしました。
どうやって千年前の人の筆跡を生み出したのでしょうか?
●紫式部・道長の筆跡を生み出す
藤原道長は実際に書かれた書が残っています。
例えばひらがなの「は」堂々としたおおらかな空気感を感じます。
では、筆跡が伝わっていない紫式部の文字はどうでしょうか?
長編小説を書いた、筆まめなイメージで書くスピードが速かったのではないかと考え、毛先を細くして出すのが特徴です。
左利きの吉高さんに右に筆を持ち替えてかなを練習してもらいます。
柄本さんは、道長は当初書が苦手というイメージを出すため、手本を見せて一発書きで手本を見せて本番で使います。
●スタジオで
吉高さん「半年前から右に持ち替えて練習しました」
柄本さん「ハードルが高くてもう一回ですねとどんどん出てきます」
佐藤所長「紙を持って書くのは大変だ!」
佐藤所長「まひろは本名なんですか?」
吉高さん「女性の史料が残っていないので本名は残っていません」
河合先生「清少納言など女性の名前は読み方含め分かっていません」
平安貴族について抑えておきます。
二人の立場は全然違います。
官職は役職
位階は序列、一位から八位、貴族は五位までです。
まひろは、下級貴族の出身だということが影響していきます。
■平安貴族の日常とは?~男性~
●陽明文庫(京都市)
国宝『御堂関白記』道長自筆の日記です。
・名和修さん(文庫長)
1000年前の道長の直筆です。
道長はどのような日常を送っていたのか?
長徳4年(998年)7月5日
本来今日あるべき相撲を止め、寺に経を読むように命じたとあります。
7日は病になった内大臣の代わりに神社に天皇の使者を送る責任者を命じられます。
9日はそれが急遽延期になったという内容です。
名和さん「宮中の行事それから天皇の仰せがあったら記述しています」
日記に書かれているのはほとんど仕事のことばかり。
●道長のデータ調査
そこで道長が一月に働いた日数を調べることにしました。
・倉本一宏さん(国際日本文化研究センター教授)
摂関期古記録データベースから1000年1月の日記を調べます。
「内に候宿す」天皇の内裏に泊まることです。
結果は、休みわずか4日
左大臣道長35歳、総理大臣のような立場、忙しいのは当然かもしれません。
実務担当者はどうだったのでしょうか?
●藤原行成の日記『権記』を調べます。
26日間が仕事、ほぼ働き詰めです。
なぜそんなに忙しかったのでしょうか?
長保元年(999年)12月7日行成は朝から道長の屋敷を訪ねました。
政務の指示を仰いだ跡、道長からある依頼を受けます。
行成は天皇の母である東三条院を訪ねました。
そして今度は東三条院からの書を天皇の一条院に届けます。
天皇の言葉を伝えるため、再び東三条院へ。
道長への報告はすっかり日が暮れてからでした。
蔵人の頭の重要な仕事は、要人の取次が主な任務でした。
998年10月18日一歳の息子が病気でなくなった
死のケガレを避けるため家を出ていきます。
家族の死に目に合うことすらできなかったのです。
貴族が仕事に励む理由は出世することでしか家を守れなかったのです。
倉本さん「仕事は貴族は貴族しかないのです」
■平安貴族の日常とは?~女性~
・諸井彩子さん(聖徳大学)
『小右記』という公卿の日記で、一条天皇の妻・彰子に使える女房で為時の娘が紫式部です。
女房の仕事とは?
男性貴族の取次をすることでした。
きさきは権力の中枢を知る存在、情報を得ようとする男性貴族が頻繁に訪れてきますが、直接対面することはありません。
女房が対応しました。
状況をつかむ的確な力が求められていました。
女房が優秀であればあるほど、きさきの存在感が増したと言います。
●スタジオで
佐藤所長「働かなければ家族を守れない、やめられない、結構キツイ」
河合先生「儀式・行事を先例通りにやらないとダメでした」
「宴会も儀式の一つで、誰にどの順番でお酒を注ぐということまで決まっていました」
紫式部本人について調べました。
『源氏物語』54巻
■源氏物語誕生のきっかけ
●廬山寺(源氏物語執筆の地)
紫式部が源氏物語を書いたと伝わる場所で、かつて別の建物がありました。
紫式部の曽祖父・藤原兼輔の屋敷がこの辺り一帯を占めていて鴨川から水を引いていたと伝わります。
藤原兼輔、祖父の代に一家は没落、生活は楽ではなかったといいます。
そんな暮らしに変化が起きたのは20代半ばのこと、藤原宣孝という男性から求婚されます。
「ももといふ 名もあるものを 時の間に 散る桜には 思ひおとさじ」
百を桃にかけ、百年添い遂げようという歌です。
宣孝と結婚、充実した日々を送っていました。
ところが宣孝が病で急死したのです。
突然の別れが源氏物語を執筆したきっかけとなります。
●心の変化
・山本淳子さん(京都先端科学大学)
「彼女の和歌集の中には立て続けに世とか身という言葉を詠んだものが現れてきます」
寿命に従う現実に従う、こうした日々が1年以上続きました。
「数ならぬ 心に身をば 任せねど 身に従ふは 心なりけり」
歌に心という言葉が現れます。
なぜ変化が起きたのか?
紫式部日記に書かれています。
心を救ったのが物語、それらを語り合った女友だちの存在でした。
現実を忘れ世の辛さを忘れることが出来たのです。
紫式部はみずから筆を執るようになります。
現実の問題を物語に込めます、それが『源氏物語』でした。
山本さん「心で作り出した世界に没入し、自分の人生とは何だったかを間接的に問うていったのです」
●スタジオで
吉高さん「生きるとか死ぬことに敏感な人だったかなあとそれを物語につなげていったところもあるのかなあと」
柄本さん「普通の女性、現代の女性に通じるものを感じました」
佐藤所長「普通の感覚があるからこそ書ける」
河合先生「家庭環境が大きかった。兄弟で紫式部が完璧に覚えた、少女時代から高い教養を身に着けたから書けたともいえます」
■道長はなぜ権力者となった?
・五島邦治さん(京都芸術大学)
風俗博物館の中に手がかりがあります。
お目当ての展示が、娘の威子が後一条天皇の中宮になるときの宴会をしているものです。
「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思えば」
道長がこの宴の最中に読んだものです。
彰子=一条天皇、妍子=三条天皇、威子=後一条天皇の三代の天皇の后になりました。
天皇と血縁関係になったことで、絶対的な権力となった歓びを読んだのが望月の歌でした。
しかし、道長はもともと権力を手にする立場では有りませんでした。
男兄弟の末っ子、あとを継ぐことはほぼありませんでした。
ところが、兄たちが相次いで死亡、30歳で政権トップに立った苦労が日記に見られます。
「今日神社に出立するのに公卿が誰も来ない」
倉本さん「下の大納言、中納言、参議は皆年上、俺のほうが上、ほぼ全員そう思っている」
不安定な権力基盤をどうやって固めるのか。
天皇の義理の祖父になることです。
彰子を天皇の中宮にすることを画策します。
しかし、中宮の座には定子がついていました。
藤原行成に天皇を説得するよう依頼します。
行成、定子のある弱みを引き合いに出し説得します。
定子は出家していて、神を祭れない、新たに中宮を立てるべきと脅しとも取れる説得をします。
中宮になってもなかなか天皇は訪れてくれません。
紫式部を彰子の女房とすることでした。
この頃、源氏物語が宮中で大評判になっていました。
そして、入内から9年目、遂に彰子が懐妊します。
待望の皇子、のちに天皇に即位します。
一家三后という前代未聞の出来事を実現させました。
倉本さん「子供に伝えるにはどうすればよいのか考えていた。天皇に后を入れて皇子を生ませると考えていました」
●スタジオで
最近、「望月の歌」について解釈が変わってきているのです。
河合先生「『この世』は『この夜』とかけていて今夜月はおきさきを意味するということで、『今夜は自分の娘がきさきになってすごく満足しているよ』そんな軽い意味じゃないかと言わてています」
■検証!平安貴族の恋愛
・承香院さん(平安装束研究家)
国際日本文化研究センターで発表やアニメ映画の資料提供もしています。
平安貴族になりきって調査開始。
●スタジオで再現
宮中での恋を再現しました。
みすだれ(御簾)が重要なポイントだと言います。
当時、男女の居場所は別れており、御簾で女性は男性に顔を見せないものとされていました。
当時の絵を見ると御簾の中の女性がはっきりと書かれています。
●御簾の検証
外から室内の人の姿は見えませんが、室内から外を見ると、はっきりと見えています。
しかし、夜になるとこの状況が一変します。
外から女性の顔が見えます。
絵のような状況は夜に起きていました。
●恋文
女性に直接告白することはできなかったからです。
花紅梅色の恋文、演出が重要でした。
女性もまた恋文を心待ちにしていたようです。
清少納言の『枕草子』
こうして関係が深まると男性が女性の部屋を尋ねるようになります。
まずは御簾越しに会話をするのが礼儀でした。
風が吹いて顔が見えてしまうというハプニングも。
ついに御簾を越えるときが。
ここで、グッと入っていかれる方と控えめに朝までお話しをする方がいました。
●スタジオで
柄本さん「雅と言われる要因を見たなと」
どうしてこのようなイメージがついたのかというと、物語の影響が大きいのではないか
平安=恋愛というイメージがついたのではということでした。
河合先生「一夫一妻制で親の許可が必要でした」
ーーーおわりーーー
次回は「古代ギリシャ」1月10日(水)22時放送です。
■感想
『光る君へ』の番宣なので、『源氏物語』の雅な世界と現実世界の政治とが、どう絡んで展開するのか注目しています。
藤原道長が紫式部に源氏物語を書かせたのでしょうかね。
それとも、ゴーストライターが集まって書いて、最終的に紫式部という名前が独り歩きしたとか。
あまり題材になることがない平安時代なので、大変興味津々です。
とは言え、私は藤原氏の業績・行いを評価していない人間なので、悪しからず。
感想文が藤原叩きに偏ったらごめんなさい。
一方、紫式部の方はまったく知らないので、色眼鏡で見ることはないでしょう。
平󠄁安時代は、平安遷都の延暦13年(794年)にはじまり、12世紀末の1185年平氏滅亡まで続いた約400年間です。
道長誕生が966年ですから、まさに平安時代のど真ん中、平安絶頂期の時代です。
940年頃には、平将門の乱、藤原純友の乱が起きるなど、武士の勃興が芽吹き始めた時代ともいえます。
とは言え、そんな蝦夷の地での出来事など貴族には知ったこっちゃないでしょうね。
一方、紫式部は出生日、死没日不詳、名前も不詳の、謎の人物です。
『紫式部日記』は、藤原道長の要請で宮中に上がった紫式部が、寛弘5年(1008年)~寛弘7年(1010年)まで、宮中の様子を中心に書いた日記で、この日記から紫式部の様子が垣間見えます。