【感想】NHK 歴史探偵「後鳥羽上皇と承久の乱」を視聴しました
2022年11月2日(水)22:00~22:44、NHK 歴史探偵「後鳥羽上皇と承久の乱」を視聴しました。
<始まる前に>
本日も鎌倉殿の13人の番宣ですね。
ドラマではあまり詳細には描かれない後鳥羽上皇側の秘密が語られるのでしょうか。
承久の乱も含め、大変興味があります。
<NHKのあらすじ>
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で北条義時の前に立ちはだかる後鳥羽上皇。
あらゆる分野で頂点を極めた最強の上皇の秘密を徹底調査。
承久の乱に至る波乱の生涯に迫ります
■希代の天才 後鳥羽上皇
■スタジオで
佐藤所長「実際はどんな人物だったか気になりますね」
国宝「後鳥羽天皇宸翰御手印置文」という手形です。
後鳥羽上皇、手が大きかったことがわかります。
船の櫂を軽々と持ち上げた力持ちでした。
1180年、誕生、祖父は後白河法皇、4歳で天皇に即位、19歳で上皇になり院政をしき、1221年に承久の乱で破れ、隠岐に流され、60歳でこの世を去ります。
■ターニングポイント1:壇ノ浦の戦い
6歳の時の壇ノ浦の戦いです。
波乱の人生が始まります。
島根隠岐へ
1221年北条義時追討を計画、承久の乱を起こすも隠岐に流され生涯を閉じました。
・村尾茂樹さん(隠岐神社の禰宜)
上皇が生活して場所へ
「行在所」仮御所として使っていた場所に石碑があります。
「村上家資料館」大切に、可愛がっていたものです。
「猫石」です。
ぬいぐるみのようにかわいがったのではないかと伝わっています。
もう一つ縁が深い場所へ
小さなほこらです。
生涯大切にしていたものが祀られていたそうです。
刀をつくる道具の「ふいご」と「刀」が納められていたといいます。
後鳥羽上皇は生涯、刀を作ることに並々ならぬ情熱を注いできました。
■なぜそれほどまで刀が重要だったのか?
関門海峡壇ノ浦にありました。
源平の戦いの最中、4歳で天皇に即位しますが、大変な事件が起きます。
平家が三種の神器を持ち去ったのです。
三種の神器なく即位した異例の天皇となります。
希代の珍事と囁かれました。
1185年、勾玉、鏡は回収されますが、剣は海の底に沈みました。
・関幸彦さん(日本大学教授)
「神剣無きまま即位した、コンプレックスそうした意識が醸成されていく」
神剣の捜査のため、海人まで使われ、30年後まで探した記録が残っています。
■なぜ神剣は見つからなかったのか?
現代の科学で調査します。
・山城賢さん(九州大学教授)
最新の測量船で神剣が沈んだという現場へ向かいました。
海峡で流れが速いところでした。
海の深さは、40m、起伏が多い地形で10~50mに。
・中川早苗さん(海女)
調査の映像を見てもらうと、「かなり流される、20、40mを潜るのは100%無理」
大きな盛り上がった波のような地形は、サウンドウェーブといい潮流が速いところで見られます。
ものが落ちたらどうなりますか?
砂は動いているので、だんだん埋まってしまいます。
結局、神剣は見つかりませんでした。
「明月記」神剣が海に没したままのため、世の中がこんな有様になってしまった。
正統な天皇ではないのではないか、生涯抱えるコンプレックスになっていきました。
さらに、強大な存在がより大きくした可能性があります。
武士です。
武士に負けない圧倒的な力を誇示するためには刀が必要不可欠だったのです。
全国から刀鍛冶を集める「御番鍛冶」を定めたと言われています。
・関さん「武力・武芸を後鳥羽上皇が掌握する意識があったのではないか」
■スタジオで
河合先生「権力構造が変わり、西面の武士という親衛隊を置きますが、コンプレックスという気がします」
■現役の刀鍛冶にお聞きしました。
後鳥羽上皇が自ら作ったという「菊御作」刀への探究心は、芸術性を高めていきました。
・月山貞利さん(刀匠)
独創的で特別な思いが込められていると言います。
三種の神器「八尺瓊勾玉」、「八咫鏡」、「草薙剣」
河合先生「統率力が無いと思われてしまいます」
佐藤所長「不運な感じがしますよね」
■ターニングポイント2:水無瀬離宮の造営
1200年20歳、水無瀬離宮の造営
大阪府島本町へ
後鳥羽上皇水無瀬宮跡という石碑があります。
・豊田裕章さん(国際日本文化研究センター客員教授)
水無瀬離宮とはどんなものだったのか?
重要な手がかりが「甕」(かめ)、酒などの貯蔵に使われたそうです。
平安京の中央卸売市場のようなものです。
離宮の近くに経済的な拠点を移そうとしました。
離宮のそばに市場?
田んぼで、馬場の跡、乗馬のメインストリートとして使わたと推定しています。
笠懸をしたという記録が残っています。
御所や貴族の屋敷があり、重要な政務を行われていたといいます。
東西南北2.7kmに及んでいた経済、軍事、政治の機能を持つ都市でした。
町くらいあり、中世都市としてとらえることができます。
平賀朝雅なども招かれ、後鳥羽上皇の権威を見せつけていました。
・水無瀬神宮へ
特に熱心だったのが「蹴鞠」です。
毎日のように蹴鞠をされていた水無瀬離宮の跡です。
後鳥羽上皇は蹴鞠の達人でした。
武士も熱心に取り組んでいました。
水干という衣装を着て蹴鞠に参加するもののランク付けをし、格が違うということを見せつけていました。
水無瀬離宮で自分こそ最高権力者であることを示したのです。
■スタジオで
佐藤所長「武士たちの心がなびいてしまうかも」
さらに、鎌倉幕府の最高権力者を取り込んでしまいます。
佐藤所長「源実朝です」
■源実朝
御所ケ池へ
実朝の鎌倉の池と上皇の池を比べてみると、中島という大きな石の位置も一致していたのです。
・前川佳代さん(奈良女子大学)
「水際のラインも一致する、両者は相似形で造られていたと思います」
実朝が水無瀬神宮の池を真似たということ
「後鳥羽上皇に対するアプローチだったように思います」
河合先生「実朝という名前も上皇がつけているのです」
実朝が作った和歌です。
「山はさけ海はあせなむ世なりとも君にふた心わがあらめやも」
佐藤所長「これ以上ない心酔ぶりがうかがえる歌ですね」
河合先生「自分がトップに立ちながら武家政権を掌握する意図もあった」
■ターニングポイント3:実朝暗殺と大内裏焼失
1219年実朝暗殺、大内裏焼失
・滋賀県長浜市へ
太田浩史さん(長浜城歴史博物館)
「後鳥羽神社」
2回ほど後鳥羽上皇が来られたという伝承があります。
「呪い殺す」
呪いの儀式とはどんなものだったのか?
・山田雄司さん(三重大学教授)
「十五壇法というものを畿内周辺の寺院に命じていました」
『怨敵』を退散させる、自分たちが勝利できる」
延暦寺、仁和寺、東寺などが一斉に祈祷するというものです。
ある狙いもありました。
「読経の声が京都の中で響くので、武士たちに知らしめることで味方を集める意味があった」
なぜ呪いの儀式をおこなったのでしょうか?
キッカケは1219年の実朝の暗殺でした。
幕府と上皇の関係が崩れていきます。
実朝を亡くしたのは後鳥羽上皇にとっては危機的な状況でした。
武士同士の争いで、大内裏が焼失するという事態は、前代未聞でした。
再建の要求は幕府に拒否され、上皇の怒りは頂点に達しました。
よって、呪い殺そうとしたのは、「北条義時」です。
義時追討の具体的動きが始まります。
京都の鎌倉武士を自分の軍勢にし、東国武士の寝返りを図り、義時追討の命令が出されました。
上皇は勝利を確信。
ところが、1221年承久の乱、圧倒的戦力で上皇側は大敗したのです。
なぜ上皇は負けたのか?
その謎を解く鍵は駆け引きにあります。
武田信光はどちらにつくか迷っていました。
朝廷への参上を上奏を許可する、名誉と官職を与えるというもの。
義時は、六カ国の土地を与えるというもの。
武田信光の求めたのは土地、義時を選びました。
後鳥羽上皇は、価値観の変化についていけなかったのです。
自己の所領を拡大できるビッグビジネスにつながるという要素が武士にあったのです。
上皇は隠岐に流されます。
武士が台頭する時代、隠岐で60年の生涯を閉じました。
■スタジオで
佐藤所長「土地を大事にしていたのかということですね」
河合先生「ワンマン社長、文武両道のすごい人なので読みを間違えたことがわかります」
「しかし、基本的に作戦は間違っていなかった、ほとんど後鳥羽上皇側についていたのです」
「一番びびっていたのは義時で、雷が落ちると滅亡の前兆かもしれないとおびえていた」
「頼朝の時と同じ雷ですよと大江広元が安心させています」
鎌倉幕府は関東中心から、承久の乱以降、畿内から西日本を納めていくターニングポイントでした。
佐藤所長「1192年いい国作ろう鎌倉幕府で覚えていました」
河合先生「1185年とう教科書もあり、定説がないんです」
「もしかしたら1221年の承久の乱が鎌倉幕府成立なのかもしれません」
ーーーおわりーーー
次回は「SNSの元祖!?正岡子規」11月9日(水)放送です。
■感想
保元・平治の乱で貴族が没落、武士が台頭してきますが、武士の確立に杭を打ったのが承久の乱。
義時、大江広元といった智略に優れた側近に恵まれて鎌倉幕府が成長していきます。
どちらに民心がついたかといえば、貴族より武士側だったのでしょう。
平安後期になると、貴族は腐敗し何もできませんから。
御恩と奉公、つまりアメとムチを上手に使ったのが北条ですかね。
自分たちの権力に近づいてくる武士や貴族を蹴落として幕府を牛耳り、最終的に政権を奪うところまでいったのですから、義時、大江広元、政子連合政権が優れていたのでしょう。
後鳥羽上皇も、感情が理性を上回ってしまい、権力者に反抗、最後は負けてしまいました。
どうみても勝ち目がないのに戦った上皇側、やっぱり感情で戦ったようにしか見えません。
天下分け目の戦いにはみえず、西国も制覇したのは結果論かな。
1221年が鎌倉幕府成立とみる説は、すこし無理そうです。