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【感想】NHK 歴史探偵「長谷川等伯 幻の障壁画」を視聴しました
2023年5月10日(水)22:00~22:44、歴史探偵「長谷川等伯 幻の障壁画」を視聴しました。
<始まる前に>
長谷川等伯は、狩野派や曾我蕭白、伊藤若冲等とは違った趣のある絵ですよね。
時代も少し違いますし。
<NHKのあらすじ>
京都・智積院の国宝障壁画。
戦国の絵師・長谷川等伯の傑作だ。
現代へと伝わる中で切り貼りされて姿を変えた国宝。
現代の技術と研究成果を手がかりに復元される姿とは!?
■長谷川等伯 幻の障壁画
■スタジオで
長谷川等伯は戦国時代に活躍した絵師です。
佐藤所長「あまり詳しくは知りません」
「松林図」冷たく湿った空気感が伝わります。
「竹林猿猴図」猿の毛並みが可愛いです。
「波濤図」波の線などデフォルメして際立って印象に残る絵です。
「仏涅槃図」「千利休像」
中でも傑作と言われているのが、京都の寺の国宝の障壁画です。
■京都・智積院
・福崎孝成さん
国宝「障壁画」豊臣秀吉のために書いた絵で、春秋の風景、「楓図」「桜図」です。
股份という貝殻を塗りつぶして立体的に凹凸のようなものが見えます。
「松に黄蜀葵図」「松に秋草図」など。
しかし、これらの障壁画には不思議な点があるといいます。
・安原成美さん(日本画家)
当初の姿とは違い、「楓図」を見ると、枝がつながっていないことがわかります。
智積院の宸殿に、もともと楓図と松に黄蜀葵図の一部だったものです。
1682年7月13日の智積院で火事が起こりました。
明治時代には盗難事件があり、一部の作品が行方不明になりました。
さらに、昭和22年のニュースフィルムに残されていました。
「国宝焼く」枇杷の図など16面が失われていました。
障壁画の目録「智積院靈實并袈裟世具目録」に残されていました。
極彩色絵の項目に、追加された文章があります。
客殿を含め4つの建物の屏風へ姿を変えたとみられるのです。
なんとか厚生に伝えようと修正したということもありえます。
作品の魅力を損なわないよう細心の注意が払われたといいます。
■高精細カメラで撮影
「松に黄蜀葵図」の上部を狙い撮影します。
肉眼よりはっきりと、紙の端っこの線のようなものが見えます。
これは切り貼りの後で、ここを境にもともと違う部分でした。
境目がはっきりしてしまうので、ごまかしています。
「見る側が自然に絵に入っていけるよう、最大限の処置をしたと思います」
名作を後世につなごうという人々の思いが込められていました。
■スタジオで
松島雅人さん(東京国立博物館)
「狩野永徳は狩野派の御曹司、今ではすべての作品が失われています」
「狩野永徳らの作品がどんなものだったか想像する手がかりになります」
秀吉の戦略もあります。
狩野永徳の檜図は室町時代以来の保守的な描き方
長谷川等伯の松に秋草図は、この時代の新しい描き方
「秀吉の革新者というイメージを高めようとしたのかもしれません」
佐藤所長「秀吉と等伯は相性が良いのかもしれません」
障壁画をCGで復元しました。
■CGで復元
元々障壁画は秀吉の建てた祥雲寺にありました。
智積院の境内
発掘調査
・梶川敏夫さん
礎石に注目、建物の規模を導き出しました。
東西38.4m、南北25.8m破格のスケールの大きさでした。
これをもとに建物をCG復元します。
入母屋造と想定、屋根は檜皮葺にしました。
「松に黄蜀葵図」を使い復元に挑みます。
・安原成美さんに協力してもらいます。
二股の松の構図が現れました。
ここで、ある問題に直面します。
火事や盗難で全体の復元には情報が足りません。
東京文化財研究所へ
ここに1930年から各地の文化財の調査をした写真が残されていました。
カラー化に挑戦、東京CG制作会社
・荒井経さん(東京藝術大学)
葉を一枚一枚手作業で色付けします。
「枇杷図」を復元しました。
カラー化により枝に積もる雪の様子がわかるようになりました。
さらにブラッシュアップを行い、想像を超える色彩のコントラストが浮かび上がりました。
CGで春の「桜図」、秋の「楓図」、夏の「松に立葵図」、冬の「柏図」「竹図」が蘇りました。
さらに、冬の「雪松図」「枇杷図」元々つながった一つの絵だったことがわかりました。
最も大きな部屋へ
等伯の演出が施されていて、風に揺れ水に濡れる部屋は、鶴松の仏壇だったと考えられています。秀吉の目的は、わずか三歳で亡くなる鶴松の供養のためでした。
秋の草花は子供の目線、鶴松の気配を感じる演出があったように感じます。
■スタジオで
佐藤所長「秀吉が等伯を信用していたことがわかります」
枇杷図と雪松図は冬の並び合う風景でした。
現実には春と秋は同時に見ることができません、死後の世界、鶴松の弔いに通じている。世界のすべてを支配する権力者としての威光効果もあった」
等伯がどうやって大仕事を手にしたのか?
■故郷・石川県七尾市
・宮島新一さん(美術史家)
等伯は七尾で生まれ、10代の若い頃から能登一帯から富山に残っています。
・長谷川等伯の「仏涅槃図」
巧みな色使い赤と緑で激情を高めています。
得意だった緻密な描写も際立っています。
これだけの物がを描ける絵師はいませんでした
そして、多く手掛けたのが日蓮宗の寺から依頼された作品です。
日蓮宗のネットワークを通じて京都での活躍の足がかりをつかみます。
京都・本法寺
・安中尚史さん(立正大学)
日堯上人像
実力で狩野派の一角を崩しました。
「自分の絵の力量を知らしめようとしたと考えられています」
さらに、新たな人脈を広げました。
「等伯画説」日通が会話を書き残したものです。
堺の茶人たちの名前が頻繁に記されています。
日通は堺の豪商出身でした。堺の茶人と深い関係を築いていたのです。
大物、千利休に近づこうとしたのです。
大徳寺の天井の絵師に選ばれ、この大作でで等伯は高い名声を得たと考えられます。
「策士だったのかなと思います」
■天下人秀吉の仕事
狩野派が牛耳っていたこの壁をどう乗り越えたのか?
鬼子母神十羅刹女像(富山・妙傳寺)
・関巧卓さん
女神たちの左下、わずか5cmほどの女性、信長の妹?
等伯は信長の妹と接点を持ちました。
中央に開けていく接点として持った神保氏張と離縁、稲葉貞通と再婚します。
そして、稲葉氏の親戚・前田玄以と繋がります。
前田玄以の任務、鶴松の菩提を弔う寺の建設でした。
前田玄以は等伯を抜擢したと考えられます。
腕を磨き続けた等伯の一世一代の大仕事でした。
■スタジオで
佐藤所長「絵の才能に対する確信があったという印象を受けます」
松島雅人さん「運というものもあった、狩野永徳が急死し、一瞬力が弱まったタイミングでした」
ーーーおわりーーー
次回は「オッス!おら三蔵 西遊記の世界」5月17日(水)放送です。
■感想
そういえば昔、長谷川等伯の美術展にいったなあと思い出し、カタログ雑誌「没後400年 長谷川等伯」東京国立博物館を眺めています。
2010年の刊行と書いてあるので、10年以上前です。
その等伯は狩野派に弟子入りして絵画を学んだとも書いてありました。
この冊子を見ると、様々な絵画を描いたことがわかります。
とりわけ多いのが仏教関係の絵画ですね。
番組にも出てきた僧侶などの仏画が多いです。
そして、戦国武将に取り入られて御用絵師となるわけです。
オーソドックスな絵画というか、独創性があまり感じられないのも、そのためですかね。
ですが、素晴らしい絵画であることは間違いないです。
この時代の絵画はこういった感じで、一般人向けではないということでしょう。
江戸時代後期になると、一般人向けの伊藤若冲や浮世絵が出てきて私たちを楽しませてくれます。