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【感想】NHKスペシャル「家康の世界地図 〜知られざるニッポン“開国”の夢〜」

2023年12月17日(日)21時15分 「家康の世界地図 〜知られざるニッポン“開国”の夢〜」を視聴しました

<始まる前に>
「どうする家康」終了後の放送なので、続きとして期待できるのか見ものです。

<NHKのあらすじ>
最新の歴史研究で明らかになった家康の知られざる一面に迫る。
家康が開いた江戸幕府は200年以上“鎖国”したが、晩年の家康が抱いていた日本の将来像は、それとは全く異なるものだった。
日本を開き、広く世界の国々と自由貿易を行い、グローバルな国を目指すという壮大な構想だ。
番組では、外交顧問ウィリアム・アダムスとのドラマを交え、“国際派・家康”の意外な実像を描き出す。
徳川家康の見果てぬ夢とは、何だったのかー。


■プロローグ
「東照大権現像」晩年の特徴をよく伝えるものと言えます。
鎖国による独自の国造りを行います。
しかし、それは家康が描く日本の姿とは違っていました。
聖櫃として大切にされてきた海外の主力商品として家康が推奨していました。
日本を世界に開く、自由貿易です。
ウィリアム・アダムス
大航海時代、ヨーロッパ諸国の
家康は日本のちいを
有効を深め通称を
知られざる家康の世界戦略に迫ります。

■家康の世界地図

「萬國絵図屏風」400年前のもので家康の愛用品だったと言います。
『駿府記」
1611年9月20日の記述に、家康は世界図屏風を見ながら海外の国々について議論したとあります。
当時いるとされた42の民族が描かれています。
もう一セット、スペイン国王とトルコ皇帝、ペルシャ王が描かれています。
ロンドン、ベネチア、名だたる都市が描かれ、当時どのようにして集めたのか、謎に包まれていました。
ところがオランダでこの謎を解く鍵が見つかりました。
■オランダ
この謎を解く鍵が見つかりました。
地図製作者・ブラウ家が1606年から1607年にかけて作った世界地図です。
屏風の世界地図と比較したところ、大陸の海岸線が似ており、国王たちも一致しました。
つまり、江戸にもたらされたのは、わずか4年後のことです。
・ディーデリック・ワイルドマンさん(オランダ海洋博物館)
「驚異的な速さで世界の最新情報を得ていた、家康側から依頼舌可能性が高いといえます」
なぜ海外に関心を持ったのか?

■豊後国・慶長5年(1600年)

ウィリアム・アダムス(三浦按針)
大英図書館に、アダムスがイギリスに送った手紙11通が残されています。

■慶長5年(1600年)5月・伏見城

「王は私を凝視しました。日本に来た目的を聞かれ、オランダとイギリスから来た、スペイン・ポルトガルとは違う国、互いに友好を深めたい」
どうやって来たのか問われると、世界地図を差し出し、ルートについて質問しました。
マゼラン海峡を通ってきたというと、たいそう驚いた様子でしたた。

■大航海時代
先駆けとなったのはポルトガルとスペインです。
東廻りと西廻り航路でアジアへの航路を開きます。
香辛料や武器などを売買し、巨万の富を得ていました。
しかし、16世紀後半、オランダとイギリスが台頭し、覇権を賭けて各地で戦いを繰り広げていました。
その時代、関ヶ原の戦いで勝利、外国との新たな関係を模索し始めました。

■アダムスと
世界情勢から習慣、信仰、家畜の種類まで質問しました。
アダムスは貿易する利点を力説します。
「互いの国にないものを豊かになる、貿易でこの国を豊かにする」
家康は、海外とのつながりを求めていきます。

■家康の対外政策のビジョン

国際日本文化研究センターでは、10万ページにも及ぶ資料を分析します。
・フレデリック・クレインスさん(教授)
晩年の20年間に多くの国と交渉していたことがわかってきました。
アジア諸国と42通、ヨーロッパ64通、13の国と地域、106通に及びました。
全方位外交と呼ぶべきものでした。
さらにその先を描いた戦略が明らかになりました。
『初代平戸オランダ商館員ジャック・スペックスの日記』
1611年にオランダの使節が家康と秀忠に面会したときの記録です。
警備や監視に邪魔されること無く自由に売買することが許される。
わが国はすべての異国に対して自由であり、開かれている。
自由貿易、それによって家康は海外の品々を日本に集めようとしたのです。
・クレインスさん
国の経済を立て直すため、海外の貿易を引き入れて活性化し成長するする
しかし、そこには大きな壁が立ちはだかっていました。
前政権・豊臣秀吉の外交政策でした。
朝鮮に侵略しアジア諸国に領土を拡大する姿勢を見せ、宣教師たちを迫害、諸外国の警戒を招いていたのです。

■家康の対外政策

イフォ・スミッツさん(ライデン大学)
家康がオランダのマウリッツ公に送った書簡です。
秀吉とは全く異なる方法で諸外国と交流していきました。
「ろう国」=日本は取るに足らない国ですが、オランダと貿易関係を結ぶという新たな道を切り開きたいと記されています。
さらに、イギリスにも
オックスフォード大学
ジェームス1世に宛てた書簡では、どの港を利用しても構わない。
江戸の好きな場所に屋敷を建ててよく誰を相手に商売をしても良い、と記されています。
非常に狡猾な国際政治家でした。

■各国の商人が来国
次々と日本に訪れるようになりました。
スペイン商人は、羅紗、メガネなどをもたらしました。
久能山東照宮に海外との貿易で得た品々が残されています。
鉛筆、コンパス(金銀象嵌けひきばし)伽羅、びいどろ
鉄砲や大砲などの武器も手にいれ、銀で購入し、国内鉱山を開発、世界の3分の1を占めたと言われます。
こうして、日本には世界の富が集まるようになったのです。
しかし、大きな苦境に立たされます。

■家康が直面した苦境とは

生糸を巡る問題でした。
高級絹織物で着飾るようになり、その結果需要が高まり、最大の輸入品になりました。
ところが、生糸の貿易はポルトガルが独占、高値で売りつけ、深刻な貿易赤字をもたらしました。

■慶長14年(1609年)駿府城
家康は、ポルトガルが先に来ていましたが、オランダ使節と先に面会し、有利な条件を提示していきます。
関税もかけず、平戸にオランダ商館を作っても良い、前例がないが、ポルトガルより多くの生糸をもたらせと要求します。
「値段が下がり、価格高騰のリスクを抑え、自由な貿易で競争が起こり、参入してきて日本が有利な立場に立てるという考えがあったと思います」

■イギリス
次に目をつけたのがイギリスでした。
加えて、蝦夷の通行権を与えます。
イギリスは、まだ開拓されていなかった北西航路を探索していました。
それを使って多くの品々を運んでくるという目論見でした。
さらに壮大な野望を抱いていたことが明らかになりました。

■海外進出を目論む家康

日本自ら世界の海に乗り出すというものです。
スペイン副王宛に送られた所管です。
貿易船を毎年往来させることを望む。
スペイン領ヌエバ・エスパーニャのアカプルコに船を送り直接売買し貿易利益を手にしようとしました。
最先端の技術を学ばせようとしました。
しかし、当時ヨーロッパの国々は自国の航路に参入してくれば武力を使い締め出していました。
スペインは拒み続けました。
ところが1609年、スペイン船が日本近海で座礁、ロドリゴ・ビペロが乗っていました。
しかし、ビペロの出した条件はあまりにも強気なものでした。
・キリスト教の教会やミサを許可
・オランダ人を国外追放
・鉱山を発見した場合、利益の4分の3を贈与など
しかし、家康は条件を呑むことにしました。
オランダ人を国外に追放しない、鉱山の利益以外をすべて同意することに。
スペイン国王からの回答を待ちます。

■スペイン航路の準備

セビリアの修道院
「聖櫃」は、日本製の漆器であることが調査の結果明らかなりました。
1610年、主力輸出品として用意されたものでした。
・川村やよいさん(オビエド大学)
「家康もわかっていた、どのような日本の贅沢品がこのまれるかを」
あるものが届きます。
黄金に輝く世界最高水準の洋時計、スペイン国王からの贈り物でした。
『フェリペ3世書簡草案』
友好を深め通商を始めることに喜びを感じる
1613年6月20日ついに、スペイン航路への参入を認めることとなりました。
許可証を待つ家康に大坂の陣が勃発します。
しかし、スペインからの許可証は届くことなく家康は世を去りました。
実は許可証は、アカプルコで止まっていました。
禁教令を発したという情報がスペインに届き、発送を差し止められていました。
スペインは禁教令に反発し、白紙に戻しました。
2代将軍秀忠は父の対外政策を転換します。
貿易の制限令を出し、平戸・長崎のみしか貿易できない状態になりました。
秀忠以降、禁教と貿易制限は更に進み、1641年鎖国体制を固めます。
江戸時代、鎖国政策の中で、独自の文化を花開かせました。
家康の目指した文化と異なるものでした。
明治時代になり、貿易立国としての道を歩み始めました。
今もなお、島国日本が世界で生き抜くための国の形であり続けています。

-----おわり-----

■感想

鎖国のイメージが強い徳川家康の印象を覆すほどの内容でした。
貿易と禁教は分けて考えていて、カトリック・イエズス会系のスペイン、ポルトガルとも貿易交渉をしていたことがよく分かりました。
しかし、家康時代には鎖国にならなかったものの、秀忠の時代に鎖国となった背景が抜けています。
1630年代になると、キリシタンが国内で幕府への反抗勢力として幅を利かせてきます。
特に有名なのは島原の乱です。
島原の乱後、江戸幕府の禁教政策はいっそう強化され、鎖国体制を完成させる契機となりました。
秀吉の朝鮮出兵と欧米の警戒感など関係ないでしょう。
海外へ侵略するのが常識の欧州でこれはあり得ない。
そして、宗教の恐ろしさは家康自らよく理解していたはずです。
一向宗の一揆とか、キリシタンなどの恐ろしさは身にしみていたでしょう。
論理とか理性で納得するとは思えない人間ほど恐ろしいものはない。
鎖国後もオランダとは交易を続けたのですから、家康の考えは継続されたと言えるでしょう。
日本には完全な自由ではない緩やかな対外鎖国が似合っているのではないでしょうか。


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