見出し画像

【感想】NHK 歴史探偵「龍馬と綱吉の真実」を視聴しました

昨日2021年10月13日(水)22:30~23:15、NHKの歴史番組「歴史探偵」22回『龍馬と綱吉の真実』を視聴しました。

-----------
W杯予選はなんとかオーストラリアに勝って、首の皮二枚くらいで残りました。
次はアウェーでベトナムとオマーン、苦手なイスラム競技場での試合が鍵ですね。
-----------
■教科書
日本史の教科書、昔と変わっていることをご存知でしょうか?
例えば、最近の教科書に、聖徳太子はいなかったの?
1192年いい国つくろうは、1185年いい箱つくろう鎌倉幕府

河合敦先生、27年間高校で歴史を教えていました。
調査その1:坂本龍馬
調査その2:徳川綱吉
■スタジオで
河合先生「例えば生徒は聖徳太子という名前で呼ばれていなかったので、厩戸王で覚えているのです」
ミニクイズ
こちらの肖像画を見てください。
A:源頼朝
B:足利尊氏
違う可能性が極めて高いんです。

画像1

絹本着色伝源頼朝像 Wikimedia Commons

画像2

従来尊氏像とされてきた騎馬武者像 Wikimedia Commons

Aの頼朝と言われていた人は、足利直義ではないかという説が強いです。
Bの尊氏、だれかわからない。高師直ではないかという説が出てきています。
今は教科書から肖像画が消えてきています。

まずは坂本龍馬から。
■坂本龍馬
土佐藩の下級武士の家に生まれ27歳で脱藩、日本初の商社を結成、大きく動かす偉業を成し遂げます。
1つ目は薩長同盟です。
両者は犬猿の仲、きっかけは朝廷を巡る争いでした。
1864年、禁門の変、長州は幕府軍と交戦、薩摩藩が幕府側に加勢すると長州藩は惨敗します。
竜馬は両者を和解させるのです。
その会談が行われたのは京都・小松帯刀の屋敷でした。
薩摩藩が西郷と小松、長州藩は木戸孝允。
商売上手な龍馬ならではの「利」を生かしたアイデアでした。
長州には武器が足りません。薩摩はイギリスの武器を、兵糧不足の薩摩藩には長州の豊富な米を提供しました。
鳥羽・伏見の戦いで幕府軍を撃破、竜馬が新しい時代を開いたのです。

もう一つが、大政奉還
慶喜に決断させたのが、土佐藩からの画期的な提案でした。
後藤象二郎に竜馬は一枚のメモを渡しました。
これが船中八策です。
大政奉還後の新しい政治体制が記されていました。

■スタジオ
佐藤所長「有名な結果です、それがどうしたんですか」
河合先生「2017年、歴史教育の研究会で、あまりにも教科書に用語が多く、思い切って減らすべきという提言の中に坂本龍馬が入っていたのです」
「薩長同盟と大政奉還、龍馬はそこまで深くかかわっていないという説が出てきたのです」
・『薩長同盟盟約覚書』裏面にある竜馬の肉筆です。
竜馬のサインがしてあり、私が保証すると裏書きされています。
条文を読んでみると、本当に同盟の内容なのかという疑問が出てきているのです。
長州藩の一方的な要望と読めるものでした。
薩摩は朝廷との交渉に力をつくすこと。
長州の冤罪が晴れたときは天皇のご意向回復に力を尽くすこと。
同盟とはいえないというのです。
しかもまとめたのは別の人物という指摘も。
まとめたのは木戸孝允が薩摩藩の人たちに交渉してまとめたものだと最近言われています。
前年、小松帯刀が長州藩にアプローチして薩長同盟ができていたといわれています。

・大政奉還について
きっかけが船中八策というアイデアです。
議会設置、憲法制定など新しい国家の形が記されています。
あるなぞがありました。
・『維新土佐勤王史』
一番古い史料は大正時代の本、龍馬の時代のものは見つかっていないのです。
龍馬のものとしたのは直筆の資料があったからです。
『新政府綱領八策』
内容は船中八策に似た内容です。
大政奉還の翌月作成されたのでした。

船中八策はフィクション??いったいどういうこと?
河合先生「土佐をアピールしたい人が関わっているんです」

・坂崎紫瀾
明治時代の新聞記者で小説家で土佐藩出身です。
この人が船中八策を作ったんではないかといわれています。
『汗血千里駒』という伝記小説です。
坂崎は著者として小説を書き、竜馬を主人公にしました。
明治時代にベストセラーになったのです。
・昭憲皇太后 明治天皇の皇后
龍馬が夢枕に立って、日本海軍は私が守る、と新聞記事になりました。
その後ロシアのバルチック艦隊を破り、一躍有名になったです。
・田中光顕
宮内大臣で明治天皇と皇后につかえていた人です。
土佐の人、龍馬と仲がよく、暗殺で一番に駆けつけた人物です。
・香川敬三
皇后宮大夫、竜馬の写真を昭憲皇太后の部屋に置いておいたとか。

画像3

昭憲皇太后 Wikimedia Commons

『維新土佐勤王史』も坂崎紫瀾が作ったのです。

新国家と書かれた龍馬直筆の手紙が残っています。
龍馬の価値が下がることはないのです。

■第五代将軍徳川綱吉
佐藤所長「生類憐れみの令の犬将軍という評判が悪いイメージです」

1685年、次なるお触れ
将軍の行列に犬や猫が飛び出してきても繋がなくても良い。
大八車や牛車で犬を引くことのないようにせよ。
驚きのお触れ、24年間で130以上、世にいう生類憐れみの令です。

役人が書いたメモ帳『家来ニ申付候覚』が残っていました。
犬が喧嘩をしていたとき、犬が怪我をしたら一大事、間に入るべし。
それでも収まらなければ犬に水をまくべし、まだ駄目なら、背中に水をかけて正気に戻すべし。

徳川綱吉です。
このお触れにどれだけ本気で取り込んだことがわかるエピソードがあります。
『牛馬犬猫之覚書』
犬と飼い主のリストを作れというもの
老中町人たちに気づかって、一文を追加、犬が逃げ回っても探し回らなくてもいいとします。
しかし、綱吉は、行方不明の犬はなんとしても見つけ出すよう、徹底的に守らせました。
犬を切殺して河原に晒すという残忍な事件が起こりました。
綱吉は、野犬から飼い犬まですべて保護したのです。
犬小屋御囲場、究極の形でした。
東京都中野区、100万平方メートルに10万匹の犬が走り回るドックラン状態。
飼育費だけで年間9万8千両、100億円かかりました。

佐藤所長「ちょっとやりすぎというか低評価でいいんじゃないんですか」
河合先生「綱吉の理想、『仁』の心=命を大切にしよう、ということです。」
江戸初期は、戦国時代の野蛮な風習が残っていました。
武士の気風を完全に直したい、変えたいと考えたのが綱吉。
文治主義です。
儒教の道徳、仏教の慈悲の精神を武士に身に着けさせたかったのです。
そのためにとったのが武士の意識改革でした。
秀忠が作った武家諸法度にある、文武弓馬に最も励むこと→これを文武忠孝に変えています。
さらに、「出前授業」を始めたのです。
いろんな大名のところへ出張しながら400回以上出張授業を行いました。
「世を治めるにはみなが命をいたわる心をもたなければならない」
民衆に対し、福祉政策を行っています。
生まれた子供を捨ててしまうことがありました。
行き倒れを無視していた社会でもあった。
太平の世の中を作ったと評価されています。

ちなみに、蚊をたたいで退治したら島流しにされたとか、犬を殺したら死罪になったとかは後世の作り話であったと考えられています。

綱吉は運が悪かったのです。
元禄地震で、20万人の命が失われます。
4年後には宝永地震、富士山大噴火が発生します。
政治がわるいと起こると信じられていました。
さらに綱吉の評判を下げたのが徳川家宣の側近新井白石でした。
御囲場を廃し、貨幣も廃止、制作を次々と否定していきました。
綱吉の評判はガタ落ち、悪い噂だけが後世に伝えられたのでした。
逆に評判が上がった人物がいます。
水戸光圀です。
生類憐れみの令が嫌で、ペットとして鶴がいたんですが、ある農民が殺し処刑されそうになりますが、人の命の方が大事だと農民許したそうです。
黄門様の人気が上がりました。

■まとめ
河合先生「27年間教員していて、どうして歴史がころころ変わるのに覚えなくちゃいけないんだと言われますが、同じようなことが何回も繰り返し起こるので、その教訓を学べば社会に役立ち、人生の役に立つのです」

次回は「江戸城 3つの天守の秘密」

■感想
やっぱり龍馬の話が出てきました。
かなり盛られた話が多く、司馬遼太郎と坂崎紫瀾にうまくはめられた、というのが真相でしょうか。
小説のフィクションと歴史史実がゴッチャになって歴史研究者もそれに流されたというのが面白いですね。
どうみても龍馬は、政商、武器商人にしか見えないので、天才小説家にまんまとやられたということです。
そういう話は龍馬に限ったことではなく、義経、赤穂浪士討ち入り、新選組、平将門、戦国武将などなどいっぱいあります。
この時代であればいいのですが、昭和時代になると笑い話で済まされないことなので、心配です。
いわゆる皇国史観、自虐史観というものも、これらの小説とかドラマなんかに紛れ込ませ、プロパガンダとして利用することができます。
野口英世、チャプリン、ガンジー、キュリー夫人などなど。
歴史って、気をつけないと独り歩きするので歴史村を作るのではなく、歴史学者先生はしっかり研究していただきたいです。

日本の歴史アップデート」を書いています。


いいなと思ったら応援しよう!