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【感想】NHK 歴史探偵「坂本龍馬 本当のスゴさとは!?」を視聴しました

2023年4月19日(水)22:00~22:44、歴史探偵「坂本龍馬 本当のスゴさとは!?」を視聴しました。

<始まる前に>
維新のヒーローといわれる龍馬ですね。
どんどん祭り上げられる人物の典型ですが、どんな新説が登場するでしょうか。

<NHKのあらすじ>
幕末の風雲児・坂本龍馬。
通説とはまったく異なる薩長同盟、大政奉還で果たした龍馬の役割を徹底調査。
いろは丸事件はデタラメだらけ!?
知られざる龍馬の本当の姿に迫る。

■龍馬の本当のスゴさとは!?

■スタジオで
龍馬の名言が残されています。
「日本を今一度せんたくいたし申候」(龍馬の手紙より)
佐藤所長「教科書から龍馬の名前が消えかけているそうです」
近世史上の一大傑物(陸奥宗光)
威権があつてよい男(勝海舟)
そこで、坂本龍馬の2大功績について調べてきました。
その1:薩長同盟
その2:大政奉還

■Mission①薩長同盟での龍馬の役割とは?

龍馬の故郷、高知へ
坂本龍馬記念館
「薩長同盟の盟約書」6か条の誓約が記されていました。
同盟の2年前、長州藩は幕府軍と戦い惨敗、そんな長州藩に薩摩藩が味方するのは 幕府には打撃です。
龍馬の同盟の保証人の朱色のサインが残り、龍馬が同盟を成立させたということに
通説では慶応2年(1866年)1月21日龍馬の仲介で薩長同盟成立
・町田明広さん(神田外語大学)
1月21日という日付に注目すると、木戸は京を出発し、翌22日に到着しています。
21日より前に同盟が締結されたと見ています。
根拠は薩摩藩家老の「桂久武上京日記」です。
1月18日、深夜まで長時間、薩長で話し合いをします。
18日に事実上同盟成立したといいます。
別の記述からかつら久武
20日に木戸の送別会が開かれていました。
龍馬は18日に大阪についていますが、影も形もありません。
なぜ同盟の保証人という重要な役割を担うことになったのでしょうか。
注目されるのが、寺田屋事件です。

■寺田屋事件

1月23日、龍馬は幕府の役人に襲われます。
間一髪逃げ切った龍馬ですが、役人にあるものを押収されました。
三浦夏樹さん(坂本龍馬記念館)
「伏見奉行所報告書第一報」
龍馬が所持していた書類を押収しました。
「京坂書通写」によると、薩摩藩が長州藩と交渉したという書面があり、薩摩藩の返書もあった
薩長同盟の中身と同じ内容でした。
当時薩摩藩は幕府に従っており、幕府に取って一大事、幕府関係者に広まります。
これこそが龍馬の狙いだったという説があります。
・三浦夏樹さん
事件の現場の寺田屋事件、寺田屋は幕府の監視下にありました。
それを持って逃げなかった不可解な点があります。
薩長同盟を幕府にバラしたということです。
なぜかというと、薩長同盟には不安要素がありました。
藩内に反対派の西郷隆盛や小松帯刀などがおり、考えを統一するという狙いがありました。
家族にあてた龍馬の手紙に「小松帯刀や西郷吉之助などが大笑いしました」
既成事実が出来上がり、薩摩藩は引くに引けなくなりました。
慌てもの龍馬がいて、3人で大笑いしたということです。

■スタジオで
佐藤所長「高度な策略のような気がしますね」
河合先生「逃げる際に落とす、龍馬だったらありえますね」
木戸孝允が龍馬に宛てた手紙(複製)をスタジオに持ってきました。
長さ4mと長いです。
河合先生「薩長同盟といわれる6か条です。著名をいただきたいと5回もお願いしています」
裏がポイントです。
朱色でかかれたサイン、私が保証すると書かれています。
「小」「西」は、小松帯刀と西郷隆盛で、この二人にしっかり確認して署名したことを強調しています。
いろは丸事件は、広島県福山市の沖にある地点で、海援隊の蒸気船いろは丸と紀州藩の蒸気船が衝突、沈没します。

■Mission②いろは丸事件 龍馬の恐ろしい一面とは?

鞆の浦(広島県福山市)のいろは丸展示館
蒸気を送るパイプに、ランプ、ドアノブが展示されています。
さらに、龍馬のブーツ底?で、29cmあります。
食器類など数多くの積荷を載せていましたが、鉄砲は見つかっていません。
400丁のミニエー銃が積まれていたと記録が残っていますが、なぜ見つからないのでしょうか。
いろは丸の沈没地点へ
潮の流れがありません。
そのため、海底は1mの泥がたまっていきます。
なぜ鉄砲は見つからないのか?
・渋田雅之さん(徳島大学)
最初から積んでいなかったということです。
賠償金7万両、半分近くは鉄砲の代金です。
多額の賠償金を得るために龍馬が嘘をついたと考えています。
さらに、事故原因も嘘だった可能性が高いとみています。

■龍馬と紀州藩の主張を検証

いろは丸の進路において互いの主張に食い違いがあります。
龍馬は北西から南東に進んでいたと言います。
紀州藩は南西から北東へ進んでいたと主張します。
どちらが正しいのか、長年謎とされてきました。
近年、驚きの記録が見つかりました。
いろは丸船員の記録によると、「来島瀬戸を越した頃遠くに船の明かりを見た」
南西から北東、つまり、龍馬はデタラメをいっていたことになります。
・渋田雅之さん
航海法上、自分たちが不利になることを知っていたからだと思われます。
さらに龍馬の策略は続きます。
龍馬は、紀州藩から共に長崎に行くよう求められます。
長崎は外国の船も集まり、公平な指示を受けられるからだと考えられます。
龍馬は固辞、紀州藩は先に長崎に向かいました。
龍馬は友人たちに、紀州人は逃亡したかのような文を書きました。
さらに、花街の丸山で「船を沈めたその償いは金を取らずに国を取る」という唄を流行らせます。悪いのは紀州と印象付ける狙いでした。
龍馬たちには世論が動くことを読んでいました。
そして、7万両(30億円)の賠償金を勝ち取りました。

■スタジオで
佐藤所長「おどろきました。紀州藩の人からしたら悪魔ですよ」
土佐藩の人は、龍馬を「ときと場合とにより臨機応変、デタラメに放言する人物」と評しています。
河合先生「大騒ぎして土佐藩、長州藩など皆を巻き込んでいくことをします」
「実家の本家はお金持ちで、ふっかければ払うんじゃないかと考えたのでしょう」

■Mission③大政奉還に秘められた龍馬のねらいとは?

「幕府にて掌握する・・朝廷に返還」5年前からアイデアはあった。
慶応3年(1867年)10月14日、260年続いた徳川幕府が終りを迎えました。
龍馬は土佐藩に大政奉還の建白書を提出
山内容堂は、はじめ、徳川の恩を受けたため大政奉還に消極的でした。
土佐藩はどうして方針を変えたのか?
高知県立歴史民俗資料館へ
龍馬が土佐藩に持ち込んだものと同じ形のライフル銃です。
龍馬は藩から頼まれもせず、勝手に持ち込んだ銃です。
容堂の考えを一変させた可能性があるのです。

■出島

外国の武器商人が多く、武器を入手するには格好の場所でした。
・織田毅さん(元シーボルト記念館)
幕府の長崎奉行所に、事前に申請して許可をもらい購入していました。
軍事的な機密がわかります。
抵抗勢力になることを警戒したものと思われます。
龍馬は幕府に知られることを承知の上で、1000丁もの銃を購入していました。
さらに、芸州藩の船を借りて、土佐に運び入れたのです。
・三浦夏樹さん
土佐藩は幕府に睨まれることになるため、既成事実を作ることになりました。
「土佐は薩長に付いた」そう幕府に印象づけるためでした。
1867年9月土佐に入ります。
ついに、山内容堂は大政奉還の建白を決意します。
260年の恩がありますので、正攻法では難しい。
10月14日、徳川慶喜は政権を返上しました。

■スタジオで
佐藤所長「大政奉還でも暗躍!天才的ですね」
河合先生「容堂も、幕府が弱体化していることはわかっていました」
佐藤所長「教科書に残しましょうよ」

ーーーおわりーーー

次回は「武田信玄 最強の秘密」4月26日(水)放送です。

■感想

暗躍したことは間違いないでしょうけど、政商であることに変わりません。
今日の番組を観てても、武器商人の面目躍如としか感じないです。
一介の浪人志士が、幕府を倒すことで儲けようとしたことで、やり過ぎだと目をつけられて、最終的には命の危険に晒されたということでしょうか。
いい意味で、外国の武器商人のように両陣営に武器を売って儲けるようなことをしなかったのは、日本人らしくて潔いと思います。
知られていなかった人物を表舞台に出したことは、評価されるべきですね。
そういう意味では、歴史作家というのは期待できる存在です。
それが独り歩きして、英雄に祭り上げられたけど、少し冷静に考え出して今に至るということでしょう。

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