【感想】NHK 歴史探偵「徳川四天王」を視聴しました
2023年5月31日(水)22:00~22:44、歴史探偵「徳川四天王」を視聴しました。
<始まる前に>
今日は「どうする家康」の番宣です。
ですが、四天王の詳細はよく理解していないので楽しみです。
<NHKのあらすじ>
家康を天下人に導いた徳川四天王。
酒井忠次、榊原康政、本多忠勝、井伊直政の知られざる活躍にせまる。
大河ドラマ「どうする家康」で四天王を演じる4人の俳優も登場!
■家康の最強ブレイン!徳川四天王
大河ドラマの2人、榊原康政役の杉野遥亮さんと井伊直政役の板垣李光人さん登場です。
番組では四天王がいかに家康の天下取りに貢献したのかを見ていきます。
最年長・酒井忠次、知略に優れた榊原康政、戦国最強・本多忠勝、最年少・井伊直政の4人です。
■酒井忠次
●愛知県新城市へ
・湯浅大司さん(設楽原歴史資料館)
設楽原で作られた馬防柵です。
ただしある弱点が。火縄銃の射程距離が50mと短く、馬防柵は武田軍が責めてこないと役に立たなかったのです。
●酒井の作戦
『常山紀談』鳶ヶ巣山砦を落とせば武田軍は退路を絶たれ、前に進むしかありません。
武田軍に気づかれないで動くルート設定が重要ポイントです。
『長篠日記』忠次が通った場所が記されています。
出てきた地名を地図にマークすると、山の裏からこっそり遠回りする15kmの道のり。
鳶ヶ巣山砦から忠次の進撃ルートに目を向けると山に阻まれて全く見えません。
忠次は夜の間に行軍を配置しました。
・田口直己さん(山岳ガイド)
どうやって危険な山道を進んだのでしょうか。
『長篠日記』道案内した人物として豊田藤助と記されています。
・豊田明さん(藤助の12代目子孫)
湯浅さん「この地の有力者だった、藤助以外にいなかったと思われます」
しかし、問題は他にもありました。
行く手を阻むのが10メートルはありそうな急斜面。
『長篠日記』木の根に縄をつけ一人ずつ通した
武田軍に気づかれることなく、山道を踏破した忠次、退路を絶たれた武田軍は馬防柵へ突撃。
織田・徳川連合軍の圧勝に終わりました。
■スタジオで
佐藤所長「裏側に酒井忠次の活躍があるのは知らなかった」
杉野遥亮さん「忠次がこの作戦を行なっていなかったらどうなっていたのですか?」
河合先生「長引いたことは確かです。信長は帰りたかった。あまり乗り気ではなかったのです」
■大森南朋さんに報告
大森さん「鳶ヶ巣山砦にもう少し近いのかなと思ったら意外に大回りしていた、撮影する前に知りたかったです」
「酒井忠次は途中で隠居してしまうので、三人に任せて去っていくので期待しています」
■榊原康政と本多忠勝の活躍
●小牧長久手の戦い
愛知県小牧市へ
小牧山に家康は陣を張りました。
天正十二年(1584)年小牧・長久手の戦いは、羽柴秀吉と徳川家康の合戦です。
家康は小牧山城に軍勢3万、秀吉は8万人の大軍、家康大ピンチです。
しかし、秀吉は攻め込んできません。
・浅野友昭さん(小牧市学芸員)
なぜ攻めてこなかったのか?榊原康政がこの城を劇的に強化したからです。
小牧山城に造られた土塁、高さ8mあります。
さらに、この土塁の奥にも高さ8mの土塁、鉄壁の要塞に作り替えたのです。
工事期間は、記録によると、わずか5日程度でした。
●土塁の断面を保存した展示施設へ
断面をみると土の層が重なっていて、厚みは鬼ノ城(岡山県)に比べて随分厚い事がわかります。土を固める作業を省き、見た目を重視し、兵力の差を埋めたと見ます。
秀吉は、別働隊を編成し、三河に兵を進めました。
家康は9000の兵を率いて別働隊を撃破、秀吉軍が3万の軍勢を率いて追撃しました。
その時、秀吉軍に立ちはだかったのが本多忠勝でした。
忠勝500に対し秀吉3万、どう見ても忠勝に勝ち目はありません。
内貴健太さん(学芸員)
「何してくるか分からない。へたに攻撃したくなかったかもしれません」
その答えは12年前の一言坂の戦いにありました。
●静岡磐田市へ
・岡部英一さん(郷土史研究家)
「忠勝の知略、判断力が発揮されるような戦いが繰り広げられたのです」
元亀3年(1572年)、竹田軍が家康領に侵入。
武田軍2万を超える大軍勢、3千の家康軍では勝ち目はありません。
忠勝の手勢はわずか300で武田軍に接近します。
●知略その1
放火
忠勝が火を放ち、侵攻を阻みました。
●知略その2
待ち伏せ
時間稼ぎのためだけではなく、ある場所で待ち伏せします、それが一言坂でした。
なぜ一言坂だったのか?
狭い一本道だったといいます。
岡部さん「最後尾と武田軍の最先端としか戦えません、一本道であれば互角に戦えます」
武田軍から「唐の頭と本多忠勝」と讃えられました。
■スタジオで
佐藤所長「すごい活躍!」
杉野さん「康政はIQあるなと思いました」
味方の士気を上げることに貢献しています。
『越後高田榊原家譜』「秀吉は卑しい身分の出身だったが信長公のおかげで武将になれた だが その大恩を忘れ 織田家に兵を向ける 人の道からひどく外れた者だ」
河合先生「信長の子の一人を死に追いやった。義はこちらにあると士気を高めました」
杉野さん「こういうところで勉強出来たほうがお得じゃないですか」
杉野さん「町を放火するのは良かったんですか?」
河合先生「町人も自ら火をつけた記録があり、知らない武田軍が入ってきたので家康は良い政治をしたのです」
■山田裕貴さんに報告
「待ち伏せしたのは初耳だったです。単なる強さだけでなく戦略家だった、やっぱりな、頭もよかったんだなと。人を大事にするそういうところを見てもらえたらなと思います」
■井伊直政の交渉力
天正10年(1582年)織田信長がこの世を去ります。本能寺の変です。
内乱が勃発、領地拡大に動いたのが、徳川家康と関東の北条氏です。
家康は北関東の大名たちと協力して戦いを繰り広げますが、戦いが膠着、和睦に向けた交渉を始めます。
徳川側は、22歳の若さの井伊直政が交渉役になります。
・黒田基樹さん(駿河台大学)
「直政の交渉は100点満点でした」
直政が示した五か条の条件
北関東の大名たちが通ることを認めること
家康と北関東の大名が交流を続けるという意味、北条側には受け入れがたい条件でした。
ところが直政は北条側に飲ませます。
北条からの返事でわかると言います。
東北の大名たちの存在、北関東の大名を通じて行われていました。
東北との関係を理由に北関東の大名たちのの連携を認めさせたと言います
黒田さん「22歳くらいで成し遂げるのが直政のすごさでした」
●関ヶ原の戦い
どれだけ多くの大名を味方のつけるかにありました。
直政はその工作を戦いの2年前から行っていました。
狙った相手は黒田長政
・野田浩子さん(立命館大学)
「直政の目の付け所がよかったところもあるでしょう」
『黒田家文書』
黒田の望む通りの品をプレゼント、返事のために直接出向くと書いてあります。
・野田浩子さん
主君家康への愚痴ともとれる文面です。
「ふだんより3倍長く働かされました。くたくたです」
あらゆる策を講じた直政、黒田は徳川家に心を寄せるようになります。
大名を説得の結果、毛利一族の調略に成功します。
そして、関ヶ原の戦いで家康は見事勝利、天下人となりました。
■スタジオで
佐藤所長「板垣李光人くんに拍手を送りたくなりました」
板垣さん「丁寧だったり謙虚さを相手に見せることができる。勉強になりました」
杉野さん「クタクタですというのがずるいなと思いました」
河合先生「気遣いの人、大野万度事にこやかにお菓子を出したりしてお母さんが気に入ってしまったという話しがあります」
佐藤所長「大政所にもいったんじゃない、クタクタですって」
ーーーおわりーーー
次回は「長篠の戦い」6月7日(水)再放送です。
■感想
権力を掌握した政権による評価なので脚色されていることを考慮しても、結果的に、徳川四天王の力がなければ徳川安泰の世は出来なかことは評価できると言えます。
榊原康政は、永禄4年(1561年)に、松平元康に抜擢されたとか。
本多忠勝は、永禄6年(1563年)の三河一向一揆に徳川方として参戦しています。
酒井忠次は、竹千代(家康)が今川義元への人質として駿府に赴く時、竹千代に従う家臣として同行しています。
井伊直政は、天正3年(1575年)、家康に見出され、小姓として取り立てられました。
酒井忠次を除く3名は、桶狭間以降に見出された家臣のようです。
すいません、家康摩り替え説を想像していて、つまり、3人は摩り替え後に家臣になったと言えるかも。
酒井忠次も、もう少し深掘りしてみると面白いかもしれません。
もちろん憶測でしかありませんので、あしからず。。。