【感想】NHK 歴史探偵「誕生!「日露戦争 知られざる開戦のメカニズム」を視聴しました
2024年4月3日(水)22:00~22:45 歴史探偵「日露戦争 知られざる開戦のメカニズム」を視聴しました。
<始まる前に>
日露戦争の知られざる真実が分かるのか?
楽しみです。
<NHKのあらすじ>
120年前に起きた日露戦争。
なぜ戦いに至ったのか?
ロシアのイメージが友好国から仮想敵国へと変わるなかで起きていた両国のすれ違いと開戦を望む世論の誕生を調査する。
■プロローグ
●スタジオで
佐藤所長「日本が経験した大きな戦争の一つですね」
どのように戦争が始まってしまうのか?
日露戦争以前から様々な衝突が起こっていました。
・1806年・07年 ロシア軍艦蝦夷地襲撃事件(文化露寇)
・1811年ゴローウニン事件
・1861年 ロシア軍艦 対馬占拠事件
・1904~05年 日露戦争
ところが日露戦争より少し前の時代を調べるとロシアとの意外な関係が見えてきました。
■日本とロシアの意外な関係とは?
●函館
・倉田有佳さん(ロシア極東連邦総合大学)
函館名物の朝市
いくらはロシア語で魚卵をさす単語です。
函館市北洋資料館
日本人の漁業者がロシアで漁業の仕事をしていました。
漁業を通してロシア人とのつながりが出来ていたのです。
手作りのロシア語辞典が残っています。
●函館ハリストス正教会
日本初のロシア領事館がありました。
ニコライ堂(東京復活大聖堂)が1884年(明治17年)建造開始
日露文化交流の拠点に成りました。
東京外国語学校で英・仏・独・露・清の授業が始まります。
ロシア語は海外と付き合う上で重要な言語の一つでした。
●明治天皇
中でもロシアとの関係を重視したのが明治天皇です。
『明治天皇紀』
明治天皇はアレキサンドル二世を親友と呼ぶほど親しみを持っていました。
・麻田雅文さん(岩手大学)
隣国なので親しみがある部分がありました。かなり年長で兄的なポジションだったかもしれません」
先進国を目指す仲間意識があったと見られています。
■大津事件
1891年(明治24)年ある事件が起こります。
大津事件です。
ロシア帝国皇太子ニコライを滋賀県警の巡査・津田三蔵がサーベルで切りつけました。
・井上優さん(滋賀県立琵琶湖文化館)
事件の証拠品として滋賀県庁で厳封して保管していたものです。
事件の凶器となったサーベルとニコライの血がついたハンカチです。
国内は大混乱に陥ります。
しかし、ロシアが日本を攻めてくることはありませんでした。
なぜ衝突に至らなかったのか?
国内でロシアとの修復をする動きが出ていました。
明治天皇が、事件の翌日にニコライを見舞うため、京都に向かいます。
ニコライの帰国前に会食に参加、関係改善に務めました。
「善良な日本人に対して少しも腹を立てていない」保田孝一「最後のロシア皇帝ニコライ二世の日記」より
日露戦争13年前、戦争を回避できる間柄が出来ていました。
●スタジオで
佐藤所長「イクラがロシア語だったの初めて知りましいた」
河合先生「二葉亭四迷は東京外国語学校で学んだ後にロシア文学の翻訳に取り組んでいます」
歌川広重、葛飾北斎、喜多川歌麿、浮世絵コレクションがロシアで広がりました。
■日露関係がどのように変化したのか?
●函館山
・木村マサ子さん(ガイド)
円い痕跡が二つ残されています。
明治時代に大砲を置いた跡でした。
津軽海峡を見渡すことが出来る函館山、要塞をつくりロシアを上陸させないためでした。
2つの国の間にいったい何かあったのでしょうか?
●日清戦争(1894年)
これに買った日本は台湾や遼東半島を手に入れいます。
ロシアは三国干渉でドイツ・フランスと結び遼東半島を返すよう迫りました。
伊藤博文は想定内でした。
「遼東半島の返還を知って、空いた口が塞がらなかった。それもこれも、日本に力が足りないからである」
徳富蘇峰「蘇峰自伝」より
「われわれはぜひとも報復の戦を起こさねばならない」
大杉栄「自叙伝」より
・河合敦さん
新聞で臥薪嘗胆という言葉が出てきます。
1895年5月12日大阪朝日新聞に掲載されました。
3日後、新聞「日本」が掲載、読売新聞が臥薪嘗胆の文字を掲げるように成りました。
瞬く間に流行語になりました。
「キャッチフレーズ、キーワードがあるとすんなり人の心に入ってくるのです」
ロシアへの負の感情が広がっていきました。
●ロシアでは
・ドミトリー・パブロフさん(ロシア科学アカデミー)
「ロシアをはじめ列強が注目していたのは日本ではなく中国でした」
ロシアからすると三国干渉は問題ないものでした。
正式な外交ルートを通じて行ったのです。
徐々に日ロ関係は冷え込んでいきました。
●スタジオで
佐藤所長「なんでこんな事になりましたか?」
ロシアは隣国の数が多いので気を配る国は多かったのです。
1898年遼東半島の旅順・大連を租借
1900年~01年
北清事変
日本の後ろ盾となる国、イギリスです。
1902年日英同盟
■日英同盟
●戦艦三笠
・稲葉千晴さん(名城大学)
・ロテム・コーネルさん(ハイファ大学)
レンジファインダー、測距儀です。
敵艦との距離を測る道具です。
主砲のアングル(角度)を決める、大事な道具でした。
イギリスから輸入したものです。
無線通信機もイギリスから学びました。
イギリスから最先端の技術を可能としたのが日英同盟でした。
●日露戦争別の役割
日英同盟は日露戦争を進めたと言われていましたが別の役割がありました。
・千葉功さん(学習院大学)
「イギリスと同盟を結びながら、ロシアとも協商を結ぶという動きをしていたと考えられます」
伊藤博文に山縣有朋が送った手紙「山県有朋関係文書」伊藤博文宛
「ロシアと協商を結び、日本が朝鮮で自由に行動できるようになればこれが最も幸せな状態だ」
外務大臣・小村寿太郎は日英同盟締結直後、日露協商の締結に動いていました。
戦争回避の可能性が浮上していました。
日露協商締結の期待が高まるニュースが入ります。
ロシア軍が満州から撤退する動きを見せていたのです。
1902年6月29日のの新聞「日本」
「過去の歴史にはこだわらず、大局を見て、ロシアと付き合っていくべきだ」
●ロシア
ところがその希望がもろくも崩れ去れります。
なぜロシアは約束を反故にしたのか。
・ドミトリー・パブロフさん
「満州から撤兵する必要はないというものでした」
開戦論が急激に広がります。
七博士意見書にて、開戦の最後の好機だと主張します。
今でいうインフルエンサー、大学の博士がいうのならそうなんだろうとなっていきました」
流行語があると指摘します。
「恐露病」
1903年(明治36年)9月27日読売新聞
「いま日露戦争に反対するものは、恐露病にかかった臆病者だ」
恐露病の代表的な人物として揶揄されたのが伊藤博文。
1903年(明治36年)10月13日読売新聞
伊藤博文はロシアとの和平の道を模索し続けていました。
戦争を回避するべきだという声は打ち消されていきました。
●ロシアは
協商に向けた文書のやり取り
1903年8月12日日本からロシアに宛てた文書
返事が届いたのが52日後の10月3日
日本は27日後に回答をお繰り返しますが、ロシアからの返事は42日後でした。
・千葉功さん「ロシアからの回答が遅い。日本からすると交渉を妥結する気がないと判断した」
・ドミトリー・パブロフさん
「戦争をするしないの主導権は日本ではなくロシアにあると繰り返し言っています。なぜなら日本を過小評価していたからです」
1904年(明治37年)2月4日午前会
戦争に最後まで反対していたのが明治天皇です。
直接連絡をとり戦争を回避したい
1904年(明治37年)2月8日日露戦争開戦
●スタジオで
佐藤所長「恐露病、初めて知りました」
露探=ロシアへの内通者
河合先生「露探ということで追放されています」
ーーーおわりーーー
次回は「幕末桜田門外雪の中の真相」4月10日(水)22時放送です。
■感想
日露戦争の勝利の原動力が日英同盟だったことは間違いないでしょう。
以前の日露戦争・日本海海戦の特集でもイギリスの通信提携の話が出ていました。
弱国日本が生き残れる戦略は、強国と提携するということでしょう。
当時世界一の強国・イギリスと手を結んでいれば負けることはなかったのに、第一次世界大戦後、イギリスとの同盟を切ったことは、大きな戦略ミスと言っていいでしょう。(アメリカの圧力によって切らされたといえなくもないようですが)
さて、ロシアと戦争に至ったのは、政権の意向というよりも、メディアや民衆の意見の反映だったというのは、どうなんでしょうか。
もちろん、そういった側面はあるかもしれませんが、当時の政権担当者には、もうすこし大局的な客観的な判断能力があったと思われます。
(現代の愚策をすすめるポピュリズム政権担当者には笑止千万ですが)
政権の意向をメディアを使ってプロパガンダとして流布させるということはいつの時代でもあったでしょう。
それを都合よく、メディアが正しいことを主張したから政権がそれに乗っかった、というのは虫が良すぎますからね。