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【感想】NHK 歴史探偵「平安武士と蝦夷」を視聴しました
2024年6月12日(水)22:00~22:45 歴史探偵「平安武士と蝦夷」を視聴しました。
<NHKのあらすじ>
平安貴族が都で優雅な暮らしを送っていたとき、東北で朝廷に戦いを挑んだ蝦夷たち。
名将・アテルイの戦術と蝦夷と源氏・平家など武士との知られざるかかわりを調査!
■プロローグ
●スタジオで
平安貴族の話ではなく、舞台は東北、武士の成立に影響を与えた人たちを調査します。
平安時代の合戦を国別に示すと、東北では出羽11回、陸奥24回の合戦が起きています。
佐藤所長「なぜ東北でたくさん合戦が起きていたのですか?」
■アテルイ
●茨城県立歴史館
・蔀政人さん
アテルイを模した首の像です。
江戸時代、東北の人が奉納したと伝わります。
アテルイは蝦夷の族長を務めていました。
狩猟を生業としていた蝦夷のリーダーがアテルイです。
目には金泥という金を使っていて鬼神のような姿です。
「清水寺縁起絵巻」
獣のような耳と鼻、角まで生えている姿で描かれています。
●なぜ鬼のように描かれた?
・杉本良さん(北上市立博物館)
江釣子古墳群で見つかった矢じりです。
蝦夷が使った鏃、ある仕掛けが。
毒矢として非常に殺傷能力が高かった、傷をつけるだけでも相手に致命傷を与えることができました。
矢じりとともに使った鉄製の馬具、くつわです。
騎射という戦い方で朝廷軍を向かえうった蝦夷の強さは、
『続日本紀』弓馬の戦闘は蝦夷の生業であり蝦夷一人の強さは朝廷の兵士10人に相当する。
杉本さん「朝廷は脅威に感じていたことは間違いありません」
■アテルイの戦い方
●巣伏の戦い
岩手県奥州市
・樋口知志さん(岩手大学)
「巣伏の戦い」
アテルイの蝦夷側の本軍が置かれていた場所です。
延暦8年(789)、蝦夷軍1500人に対し、朝廷軍6000人、アテルイはどう戦ったのか?
●ドローンで北上川上空を撮影
北上川の西側は、田畑が多い地形で、ほとんど真っ平らです。
朝廷軍ほとんどが歩兵で平地のほうが有利に戦えます。
蝦夷の強さを最大限発揮するため、アテルイが目をつけたのは川の東側でした。
向こう側に山があり、山林が広がる東側には、大軍が陣形を組めるスペースがありません。
蝦夷軍はなぜか退却を開始、深追いする朝廷軍、森に近づいていきます。
その時、森に潜んでいた蝦夷軍が反撃、朝廷軍は大敗、1000人以上の兵を失いました。
●スタジオで
アテルイは朝廷側の記録には「阿弖流為」と記されています。
河合先生「朝廷側とは違う言葉を話していて適当に漢字を当てたのです」
「朝廷とは13年間戦い続け、貴族は非常に恐怖して鬼を引き連れ暴れる伝説が生まれました」
■蝦夷と朝廷、戦いの行方は
●清水寺
坂上田村麻呂です。
・坂井輝久さん(清水寺)
「平安時代の武将、身長5尺8寸、174cm、胸の厚さ36cm、偉丈夫でした」
朝廷は蝦夷攻略の将軍に任命します。
田村麻呂は意外な手を繰り出します。
●秋田城跡
・岡部知明さん(秋田城址歴史博物館)
木簡を赤外線カメラで見てみると、狄=蝦夷、饗料=蝦夷をもてなすための饗宴の食料です。
朝廷は蝦夷をもてなしていたのです。
アテルイと他の蝦夷を切り離し、力を弱めようとしたのです。
●次の一手
胆沢城
アテルイの領地の近くに東京ドーム9個分の巨大城塞です。
・大堀秀人さん
「朝廷側の威信を見せる意味合いもあったのです」
朝廷軍は10万軍の軍勢に膨れ上がりました。
蝦夷軍は内部分裂を起こし。802年、降伏、アテルイは京都で斬首されました。
●スタジオで
佐藤所長「田村麻呂、考えましたよね」
アテルイが降伏したあと田村麻呂はこう述べています。
「従わない他の蝦夷を懐かせるためアテルイを故郷に戻すべきだ」
河合先生「アテルイの影響力を生かして利用しようとしました」
「貴族にとっては恐怖以外の何者でもなかった、無視して処刑したのです」
その後、日本の歴史に大きな影響を及ぼす、武士の登場です。
■蝦夷と武士のつながりとは?
●関東の蝦夷
八王子
・堀越峰之さん(帝京大学総合博物館)
「赤彩球銅甕」
岩手県の北上盆地で蝦夷が使っていた甕です。
自分たちのシンボルとして関東にもってきたのではないかと考えられます。
蝦夷は俘囚と呼ばれ、全国各地に強制移住させられます。
数多く移り住んだのは関東で全体の3割近くに。
・桃崎有一郎さん(武蔵大学)
「坂東は治安維持がとれない。盗賊や海賊がはびこる関東、蝦夷は警察の役割を与えられました」
9世紀の終わり、ある勢力と結びつきました。
「王臣子孫」
一旗あげようと関東に移り住み土着化、蝦夷を配下に密接な関係を築き上げました。
「騎馬技術を王臣子孫に伝播する確立が高いです」
平将門などの強力な武士が現れました。
『新猿楽記』
流鏑馬、笠掛など12の技術のうち9種に、蝦夷が得意な騎射の技術が関わっていました。
●最強の武士、源の八幡太郎義家
義家は騎射の達人で神のごとしと称えられました。
武士の長者、誰も追いつけない頂点に立ったのが義家でした。
●義家の騎射技術
・磯部育実さん(江州御狩野和式馬術探求会)
「八的」(やつまと)8つの的を往復しながら射抜きます。
小さい的で、流鏑馬の的の17分の1の大きさです。
●スタート
8射中5射を的中。
磯部さん「坂東武者はすごかったと思います」
●源氏東北へ
朝廷に征服された東北、200年後、蝦夷は力を取り戻していました。
1051年、源氏は東北に遠征、前九年の合戦です。
●スタジオで
佐藤所長「皮肉な感じがしますけど」
河合先生「源氏は大義名分を得てから戦っています」
「頼義が陸奥守に任命されていて、安倍氏がしかけてきたから滅ぼしたと朝廷からご褒美までもらっています」
歴史家にアンケートを取りました。
どの国の国司になったら儲かるか?
1番は播磨ですが、2番目にあげているのが陸奥です。
関幸彦さん「圧倒的な面積の広さ」
桃崎さん「砂金と名馬の最大の産地」
河合先生「朝廷に一定の税を収めれば、あとは儲け放題」
■平和をもたらす人物
●中尊寺金色堂
1124年に建てられました。
この寺を建立した人物の言葉「私は俘囚の上頭を務めるものだ」
藤原清衡です。
清衡と源氏には深い因縁がありました。
前九年の合戦で清衡の父は源氏に捕えられ苦痛を長引かせるため、切れ味の悪い刀で斬られました。
およそ20年後、東北で蝦夷同士の戦いがあり、清衡も巻き込まれることに。
義家が陸奥守になって東北に兵を進めます。
●清衡の策略
・斉藤利男さん(弘前大学)
「後三年合戦絵詞」
義家の後ろに清衡がいます。
清衡は、父の仇に従うことを決めたのです。
「清和源氏の力は強かった、正面から戦って潰されることはしなかった」
源氏と連合して敵を攻める清衡、金沢柵で兵糧攻めを行いました。
女性や子供たちは降伏を願い出ます。
ところが、女子供は斬れさらされました。
主だった敵将は首をはねられさらされました。
戦いの後、義家は都に呼び戻され、東北に返り咲くことを願っていました。
●清衡の策を知る手がかり
『後二条師通記』清衡が殿下に献上した
道長の孫で関白・藤原師実でした。
師実は陸奥守にするかの影響力を持っていました。
斉藤さん「源氏の介入を避けるために手を結ぶ。何よりも事を荒立てない、政治家としては一流です」
「中尊寺建立供養願文」朝廷といわず、蝦夷といわずすべての霊を浄土に導いてください
ようやく東北に平和が訪れたのです。
●スタジオで
佐藤所長「源氏に関わっちゃダメだ」
河合先生「蝦夷の国なんだという意識の現れです」
奥州藤原氏100年東北に反映をもたらすことになりました。
「中尊寺、毛越寺、無量光院と寺を作り、平和を願う宗教、私達は戦争しませんとアピールしました」
ーーーおわりーーー
次回は「戦国ご当地大名シリーズ 大友宗麟」6月19日(水)22時放送です。
■感想
戦争し虐殺しておいて平和を願ったとは、何とも現代的感覚ですね。
どうみても、自分たちに祟りが及ばないように祈願したのでしょう。
清衡ですが、蝦夷を助けるどころか、敵側についたのですから、どうなんでしょうか、そんなに称えられる武将とは思えないのですけどね。
本当に蝦夷たちは戦争を望んでいたのでしょうか?
アテルイという戦闘好きがたまたま棟梁になって朝廷に逆らったから、討伐されたように見えるのです。
領地で採れる資源がほしいため、侵略してきたのは事実でしょう。
平安時代は温暖だったそうですから、東北も栄えたはず。
三内丸山遺跡のように、縄文系の人たちが、東北地方にいっぱい住んでいるのは、弥生人に追い立てられるように、北の方に逃れてきたからだと思われます。
どこの国でも、土着の民族は悲惨な目に会っているのは同じなのでしょう。
逆らうから蝦夷であって、逆らわなければ普通に生活できればいいんですよね。
まあ、文化が違うとなかなか溶け込めないのは今でもそうです。
現代でも、近くに他国の人が来ると違和感を持つように、古代の人たちもそんな感覚だったのかなあと想像してしまいます。