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【感想】NHK 歴史探偵「桶狭間の戦い」を視聴しました

昨日2021年9月8日(水)22:30~23:15、NHKの歴史番組「歴史探偵」17回『桶狭間の戦い』を視聴しました。
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久しぶりの歴史探偵、ほぼ2か月ぶり。
パラリンピックを総合と教育2つ独占して放送していたのはある意味驚きでした。
とにかく平常営業に戻るみたいです。
テーマは有名すぎるくらいの「桶狭間の戦い」どんな新説が飛び出すのでしょうか。
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■スタジオで
佐藤所長「愛知県出身なのでこの戦い、一か八かの戦いだった印象」
副所長「信長奇跡の勝利といわれますが、常識をガラリと変えていきます」
3つの通説に斬り込みます。
1.強大な今川対弱小の織田
2.戦いのきっかけは今川
3.一か八かの戦いで信長勝利

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『尾州桶狭間合戦』(歌川豊宣画)Wikimedia Commons

■清須市にやって来ました
信長を知る上で鍵になる場所にやって来ました。
城下町の発掘現場です。
信長時代の溝です。
城下町は、1キロ四方という広さでした。
鉄滓(てっさい):金属加工する時に出てくる不純物です。
羽口という道具も出土しました。
武器を製造する鍛冶屋が城下町にあったのです。
鍛冶屋は城下町に普通にあるものではなかったのです。
寺や神社が抱え込んでいたのです。
戦国大名は簡単に武器を手に入れることができなかった。
城下町に武器工場を作ったのです。画期的でした。
新しい武器、竹の棒を組み立てると長柄槍、6m30cmという2倍の長さです。
槍で突くのではなく振り下ろします。

そして、さらなる発見が・・・

■長福寺(名古屋市)
桶狭間の戦いの供養祭を行っている長福寺です。
驚きの資料が見つかりました。
討ち死にした人のことを記した史料です。
・「桶狭間合戦討死者書上」
近江国六角氏が織田方の援軍に来たと書かれています。
援軍いるじゃん、という話です。
・「六角承禎条書写(春日家文書)」
六角氏当主が息子に送った手紙です。
馳走、つまり、必ず手助けしなさい、と書かれています。
六角氏と織田信長が同盟関係にあったということです。
今川に対抗できる力を持っていたのです。

■スタジオで
織田は、六角氏、朝倉氏とトライアングルで同盟していました。
美濃と敵対する同士が協力関係を結んでいたということが分かってきました。

清洲城下で発見されたものがスタジオに。
瀬戸焼で作った茶碗のかけらです。
信長時代の瀬戸焼は全国で発見されています。
これを売って交易して儲けていたのです。
太閤検地の数字では、今川勢70万石、尾張は56万石

2,戦いのきっかけは今川義元

■桶狭間に
合戦場の雰囲気はありません。
水野さん登場
桶狭間よりもっと重要な場所があるのです。
4km離れた場所でした。
大高城跡です。
かなり重要な城でした。
一大軍事拠点です。
ここを巡る戦いこそが桶狭間の戦いなのです。
今川義元が大高城を奪い取ってしまいました。
信長の領地を南北に分断しました。
当時、伊勢湾に面したお城だったのです。
伊勢湾による海上交易が盛んでした。
信長は、義元を逆手に取る戦略をとっていました。
丸根砦と鷲津砦です。
張州雑志に、さらに大高城の南に2つの砦があったと書かれています。
なぜ、砦で包囲したのでしょうか。
信長が義元を呼び込むための餌でした。
義元を誘い込むワナを仕掛けたのです。

1560年、今川義元出陣、2万5千人
河合先生「いろいろな説があるのです」
佐藤所長「誘い込んでも義元自身が出かけるか、わからないのでは」
河合先生「軍事に力をいれていたので必ず出てくるという読みがあったのでは」

■なぜ桶狭間で戦いが起こったの?
明治時代の地図を見せてくれました。
どんな地形だったのでしょうか。
三方を丘に囲まれた狭い地でした。
昭和10年頃の写真に「ふけた」深田が写っています。
信長公記にも同じことが記されていました。
深田は足を取られるぬかるみでした。
桶狭間は戦いづらい場所だったのです。
信長にとっては慣れ親しんだ土地です。
信長軍は2000人で戦います。
小さな高速船がタンカーの周りを動き回るイメージ
5月19日早朝、信長出陣真っ先に大高城の北にある善照寺砦に行きます。
この砦、周囲を一望できる場所にありました。
2時間ほど動きませんでした。その狙いとは?
それは、敵情を集めることでした。
大高正面の敵が出てこないという条件が必要でした。
さらに義元がどこにいて何をしているかの情報が必要でした。
小和田先生登場
信長は鷹狩が趣味で、庭みたいなものでした。
それが合戦にも生かされたのです。
信長の鷹狩は、敵を偵察する訓練そのもの。
偵察訓練だった可能性が高いのでした。
村人たちとの交流で何かあったら情報伝達するという意味もありました。
ついにその場所を突き止めます。

自ら軍を率いて義元の本陣を襲撃し、義元を打ち取りました。

■スタジオで
佐藤所長「情報というのは鍵なんですね」
河合先生「義元を討ち取った家臣より、本陣を教えた家臣を一番の手柄にしたのです」
副所長「義元、戦場で目立っていたらしいのです」
「塗輿」です。
漆で塗られた豪華なものでした。
格式が高くないと乗れない輿でした。
居場所をさらけ出す事になってしまったのでした。

--おわり--

次回は「大江戸SDGs」

■感想
今回は織田信長側の視点で作られたストーリーでしたね。
河合先生が言っているように、桶狭間の戦いは様々な説があって断定できないようです。
今川側からみれば、今川に過失があったとは言わないでしょうし、能力不足だったとは考えていないでしょうね。
まあ、歴史というのは勝者の理論ですから信長側の視点が有利です。
信長が勝ったという事実は間違いないので、事実前提でいえば、今川側の力不足ということになりますね。
情報もたらした家臣を戦功一番にしたところをみると、義元を狙った一点突破の戦術に命運を賭けた信長の作戦勝ちといったところでしょうか。
おっと、これはただの通説でしたね。
意外に通説も正しいということです。
なお、六角氏の援軍がいたというのはどういう意味があったのか、イマイチわかりませんでした。


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