クオンタム・スパイダー 量子の蜘蛛を放て8. “心の中に内海を持て”
久しぶりに日曜日の東京にいる。膨大な通勤通学人口ではない、そのままの東京生活者が普段着で駅に道に喫煙スペースに喫茶店に、完全に孤独で、いる。そこにはもはや朝も夜もない茫漠たる海や砂漠のような気配が立ち上っている。陽炎のように寂寞たる静けさが、無言の人間のすれ違いから聞こえる。出会いもなく別離もない。ビルの隙間から見える木の葉のざわめきも沈黙している。大阪とは対象的だ。大阪の人々、人々の大阪からは、やかましいほどの“生きなあかん”、“このままで終わってたまるかい”というエネルギーのきしりが煮えたぎっている。場所の違いというのでなく、人の違いのようだ。いっそのこと定期的に東京の東半分に大阪人を移植し、大阪の西半分に東京人を移植したら、だいぶ違ってくるように思う。つまりもはや人間と地域の生んだ人間と地域の為の産業、生業が無くなってきており、マネーのマネーによるマネーの為の産業、経済が人間や街から乖離しているからだと感じる。であるならば、東京の膨大な人口は人間の群れ=バンドではなく、半導体の中を半永久的に転がり溢れ、心の振動もなくしてゆく電子の直流と交流のようなものだ。そうだとすれば、これからの日本人に、いや人間に必要なものは、“なにがなんでも生き抜いたるで、邪魔するもんはしばき倒っそ”という大阪人の啖呵かもしれない。そのような大阪人が昔から嫌い嫌がり畏怖するのが京都人。かの伝統と呪術の狭ーい土地に千年も二千年も根をはる人々。さらにはその京都人が昔から嫌い嫌がり畏怖するのはどこの人々かおわかりだろうか?
滋賀近江の人々らしい。複式簿記を編み出していた近江商人達とその哲学を育んだ琵琶湖ということになる。人間には外洋でなく内海が強烈な文明をインスパイアするのかもしれない。かの地中海のように。
■画像はヤフー琵琶湖画像より。
■画像はヤフー地中海画像より。
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