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十九回 「辞める、止めた、やめだ!」

1994年1月 R女史の部屋・草加

 RECボタンは押しっぱなし。コタツに寝転がりながら、弘樹はカメラテストと称してR女史に話しかけている。

「ねぇ、ドイツ語って面白い?」

「ん~?」

「話せるようになったら何したいの?」

「……そうね~」

 彼女はドイツ語の作文をやっていた。今年の夏、ドイツに短期留学に行くためにどうしてもクリアしなければならないものがあるらしいのだ。だから、弘樹の質問などろくに聴いてるわけもない。

「今日はバイトもないから家で勉強する」と言うから、じゃあテスト勉強でも一緒にやろうよと押しかけて来たのだけれど……。

彼女のあまりの真剣モードに弘樹は退屈していたのだ。

「単語がさ、長ったらしいよねドイツ語って」

「……」

 ズーム機能をつかって寄ってみる。

かなりのアップになった。

年末に中目黒の忠良叔父さんからもらったばかりの、シャープの最新の液晶ビューカム。映画づくりには向いてないが直観的に撮れるのが楽しい。

 チラッとこちらを見る彼女。

 視線はクールだ。

 僕を見ているようで見ていない、

 そんな感じ。

「なかなかいい表情だね、鉄の女みたいで。実にドイツっぽいよ…」

言ったそばから、すぐに目をそらされた。

「どうしてそんなに活字みたいな字を書けるの?」

「……」

『彼女は几帳面な文字を書く。まるでエル・シー・スミスのタイプライターで打ったような規則正しい文字列。それはドイツ語にとても似合っているようで…、一見するとうまいというか、堅ブツすぎて冷たい印象を与えるというか…』


 カメラを向けても十回に一度位しか相槌がないから、時々ナレーション風な語りを入れてみる。これではインタビューというより、僕のモノローグビデオにしかならない。

「あぁ、お腹すいたなぁ。陣太鼓のラーメン肉丼セットが恋しい」

「あのさぁ~弘樹くん…」

「はい、なんでしょう~」

「ていうか、今日君は何しに来たの?全然集中出来ないんですけどっ!」

「……」

「君もテストが近いんじゃなかったのかしら?」

言いながらカメラのレンズをふさがれてしまい、しぶしぶ録画を停止する。

「うーん、そう言われるとそうだ。でも多分テストは大丈夫。レポートも得意だし…」

「君のその自信満々ぶりは一体どこから湧いてくるんでしょう?」

あとさぁ、と彼女は続ける。

「あんみつとラーメン屋のバイトも今日なんじゃないの?火曜と金曜はカキーンとがんばるぜとか言ってたじゃない……」

痛い所をついてきた。弘樹はここ最近、テスト勉強をする気も起きなかったし、バイトも面倒くさくなってきていたのだった。


「あれさ、先月から殆ど行ってないんだ」

「……ふうん、じゃあ塾講師は?」

「ジュクコーも、今月で辞める…」

 推薦で大学が決まってからのこの一年、弘樹はバイトばかりの生活に嫌気がさしてきていた。

「歯医者さんの娘の香織ちゃん以外は、全てカテキョーも終わりしようかなって」

テキトーに答えているうちに、ふいにみんな止めちゃえばいいかもなと思った。思ってしまったのだ。


 そもそもお金を貯めようと思ったのは、映画をやるためだ。あとは密かに独り暮らしを始めるためだった。塾を三つ、家庭教師を四人掛け持ちし、空いた時間は飲食の厨房で働いてきた。毎月二十五万の収入のうち二十万を貯金して、もう三百万近くは貯まったはずだ。


バイトも別に、楽しくないわけじゃあない。お金はある程度貯まった。

単位もなんとかなりそうだ。

でも、だからどうしたというのだ。

それが何だというのだろう…。

SO  WHAT?


単位がとれたら未来は開くのか?

お金があれば自由になれるのか、

映画は撮れるようになるのだろうか?

 心のどこかで、せっかく大学に入ったんだから何かをちゃんと勉強したいなと思うところもないわけではなかった。けれど、そうしてしまったらもっと中途半端になってしまうような気がして嫌だった。

もともと自分は何かの為に、その将来のために今を犠牲にしていくということが向いてないのかもしれなかった。

 映画が撮りたければ撮ればいい。

家を出たかったら、出ちゃえばいい。

何かを学び、それを掴みたかったら、

そう、今から動けばいいのだ。


「もう辞めた、止めた。やめだ!」そう心の中で三回唱えた後、声に出して言ってみる。

「もう、や~~~めたぁっと」

R子は呆れたような、心配そうな顔をしてこちらを眺めている。

「あのさ、伊藤さんにこれから会えるかな?」

「えっ、今から?」

「うんっ!」

「家にいなかったらセブンイレブンに行けば会えるはずだけど…。電話してみる?」

 大学の先輩である伊藤さんの家はここから歩いて五分。そうだ会いたければ、会いにいけばいい。

「いや、行ってみよう」

「って、わたしも?(テスト勉強は?)」

「うん、一緒に来てよ」

 弘樹はR子の手をとって、すぐさまアパートを飛び出した。彼女も「えー、なんでこんな展開?」とか言いながらも付いてきてくれている。

 さて、ここで突然登場してきたキーパーソン。弘樹のいう伊藤さんとは一体誰なのか。実は、弘樹の転機となるニュースが先月、R子を通じて飛び込んできていたのだった。

◆ひと月まえの十二月。

 Jからの短い手紙と、伊藤さんから聞いたこと

それは実に不可解な手紙だった。奴からの手紙にしては短く簡潔である。しかも、先週手紙をもらったばかりなのに「久しぶり」から始まる内容。そして絶対帰らない、帰りたくないといってたのに「帰る」の文字が何度か記されていたからだった。

『弘樹殿。久しぶり、元気にしているだろうか。

釧路では相変わらず雪、雪、雪。

もう四月頃まで雨をみることは出来ないんだろうな、と。まあそんなことはどうでも良い。実は先週から決心していたことがある。

◎ナリタブライアンが朝日杯三才に勝ったら埼玉に帰る

 素晴らしい勝ちっぷりだった。新馬戦の頃から見ていただけに凄く嬉しい。多分そっちも馬券をがっつり取ったことだと思う。やっとG1を勝つことが出来た。良かった良かった。来週はニシノフラワーと心中だ。

てなことで帰ります。それも青春十八きっぷで。


 この頃すごく忙しい。

これを書いている今もバイトに向けてメシを食っているところである。あと三十分で夜の末広へと足を運ばねばならん。

 バイトはウエイター。ブックエンドのある三丁目ビルの向かいの釧路一でかいキャバレー「銀の目」である。もの凄く怪しい店で、先週は「AVギャルカラオケ大会」、今週は「レズビアンショー」が行われる。そんなんを横目でみながら(ゴホン)、おぼんをひっくり返さずにいるのはしんどい。でも仕事的にはすごく楽で支配人がギャンブルに(特にケーバ)に人生をかけている面白い人なんで楽しくやっている。


 あとニ十分……。

 今日キップを買ってきた。

 七千円しかかからんかった。

 二十三日の朝五時に釧路を出て、札幌すすきの「ろばた釧路」で飲んでミッドナイトで函館へ。それから新潟まわりでムーンライトで新宿へ二十五日の朝五時に着く。

 地域文化の男二と女一とで一緒に帰る。青森で温泉にも入ってくる。これも全てブライナンのお陰である。

 あと五分しかないんでここまで。

 返事が欲しい。ものすごく欲しい。

二十三日には出てしまうので、

それまでに頼む。んじゃ。

追伸:西村京太郎の「日本ダービー殺人事件」は読むべきだ』


 二度ほど読み返してみて、何かがひっかかった。ひとつは先述した「帰る」ということ。帰るというならば実家のある川越ということなんだろう。Jの実家へは、行ったことはないがレコード屋をやってたはずだ。(今はCD全盛の時代だから、レコード屋というのはどうかとは思うが)昨年の冬に親父さんが書置きを残して冬の北海道で事故を起こしてからお店は閉めているはずで、その後の家のゴタゴタでJはかなりまいっていたことまでは知っていた。

 内容は特にこれといったものはない手紙だが、キレが良いように感じた。どこか吹っ切れたような、潔さがあった。

 アイヌを中心とした地域の研究をしたいという熱い気持ちを持ちながらも自堕落な生活をしてきたJが、せっせと働いているらしい。まとまったお金を貯めて一体何に使おうとしているのだろう?


◆伊藤さんガハハと現る

「Rちゃんとはさ、出身が同じ山梨なんだよ。だから妹みたいに思えるところもあってねー。僕はねー、税理士試験の勉強をしているんだけど、なかなかこれが難しくってさ。ガハハ。今はこんなボロアパートに住んでるってわけ」

 サークルの先輩を通じて紹介してもらった法学部の伊藤さんはもう何年も大学に在籍しているらしい。(実は何年生なんだろうこの人は?)

R女史が先週実家の甲府に帰った時に買ってきた「信玄もち」を伊藤さんのところに持って行くというから、今日僕はたまたま付き合って来たのだった。

「いやぁ悪いねーRちゃん、お土産といえばやっぱり信玄もちだよねー。山梨には富士山とワインと信玄もちしかないもんねー。そうそう、お礼にビールでも持ってってよ?」

 そう言ってビールケースごとアパートの中から出してくる。実家が酒屋だという伊藤さんは、まさに酒屋そのものだった。隣のR女史は、

「伊藤さんってほんと良い人でしょ」

と僕に笑顔で語りかける。

なんだぁ、そういう魂胆だったか。荷物持ち。まあ何はともあれ、ビールを飲めるならいいか。

 そして伊藤さんは、誠実を絵にかいたような朗らかで「大人な感じの人」だった。

「あっ、伊藤さん。お家の中見せてもらってもいいですか?」

ふと僕は聞いてみた。

「えー、別にいいけど汚いよ。ちょうど山下達郎のラジオ聴きながら掃除でもしようと思ってたところでさ。それでもいいんなら…」

 弘樹は独り暮らしをしている人の家に興味があった。うちの大学は地方から来ている学生が多く、「どんな暮らしをしているんだろう」「自分ならどんな場所に住むのが良いんだろう」というのが興味の対象だった

 木造二階建て、風呂なし。トイレはあるが汲み取り式で築二十年くらいだと云う。中に入ると思いのほか広くて驚いた。六畳と五畳の二間とキッチンは別。優しい光が燦燦と降り注いでいる。

 真冬だというのに、伊藤さんは半袖短パン姿で、どうぞどうぞ汚いところですが、と汗を額に滲ませながら招き入れてくれた。


「ここって家賃幾らくらいですか?」

僕が聞くと、

「二万三千円だよ、なに?弘樹くん興味あんの?」

「はいっ、それにしても安いですね」

「うちは一階だけど、二階はもうちょっと高いから二万五千円くらいかな、ガハハハハ。あっ、そうだ。ちょうど上の人が年末で引っ越すっていってたけど…」

「えっ、ほんとですか!」

「うん、でも弘樹くん。今時風呂なし、トイレもボットンとか有り得ないんじゃない?ボクは週に一回銭湯に行く位で、お湯沸かして流しで済ませちゃうことも多いけれど…」

「いえ、別にそういうのは気にしません」

「そお?なら大家に一応聞いといてあげようか」

 ドキドキしていた。まさかの急展開。家族にも、まだ何も言ってないけれど、年末年始でなんとか説得すればいいやと、すでに頭はぐるぐると回転し始めていた。

 確かちょうどその頃からだったかもしれない。バイトがなんか面倒くさくなっちゃったのは……。「自分のフィールドは既に新天地にあり!」だと、意識は飛んでしまったのだった。


◆話は戻って一月。再びのボロアパートへ。

 ドンドンドン。

「伊藤さーーん、いますか?」

返事はない。R女史が携帯で連絡したところ、近所のコンビニのバイトに行っているようだった。

 ちょっと二階へ上がってみようかと、彼女と一緒に鉄の階段を登る。

 一段、また一段と…。

 僕にはそれがスローモーションのように感じられた。視界が世界を拡げていく。全く関係のなかった場所が、急激に親近感を伴って近づいてくる。

 上がってみると実に素敵な景色だった。隣のでっかいお屋敷にある立派な楠が間近で見える。ここで暮らしたらどんな物語が手に入るんだろうか。想いを巡らせていると少し離れたところから、ピアノの音が聴こえてくる。


 タン、タタタタタンタンタン♪

 R女史に肩を叩かれて気づいたんだけれど、知らぬ間に僕は鼻歌を口ずさんでいたようだ。

「たしか、バッハのメヌエットだよね?」

どうやらR女史もバッハが好きらしい。

「うん、そう。メヌエット。なんかいいね」

 その軽快なト長調のメロディが妙に心地良くて、これから先に起きるであろうことが、僕の前にリアリティを持って現れた気がした。

「ここでさ…」

「うん」

「僕は映画を撮ることになると思う」

「ふうん、なんか昭和な感じで、弘樹くんぽくない気もしたけど…」

「……」

「でも…、いいと思うよ。いいかもしれない」

R女史も静かに頷いてくれていた。


「そっかぁ、私もドイツ語がんばらなくっちゃ」

「うん、ドイチュ。頑張って~(笑)」

「ふざけないで、ドイツ語ではほんとにそう言うんだから~」

 彼女と笑いあっていると、遠くから伊藤さんが走って来てるのが見えた。

「おーい、R子ちゃ~~ん、弘樹くーん。ごめんごめん」

 今日もまた伊藤さんは汗だくな感じだった。この人はいつか将来、税理士になっても、変わらないんだろうなぁと思った。


(次回「ヒロキ、今日用事はあるか?」に続く


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