あとがき-いまスポーツが「あなた」にシェアできるもの-(長尾彰×冨田大介のはなし)
「そんなに綺麗にまとめなくていいからね」
そういわれたものの、なんだかしっかりと、みっちりと、いうなれば「仕上げた記事」を書こうとしてしまう。
件の対談から2週間が経ち、2本のnoteを公開した。
冒頭の言葉を発したのは、この企画の言い出しっぺである長尾彰さん。そしてこれは、この対談の「聴き手」であった僕へのオーダーである。
この対談企画、結果的に第1回となるらしい今回は、「訊き手」の長尾さんが冨田大介さんの話を引き出すことがほとんどだった。冨田大介さんは水戸ホーリーホックで「クラブリレーションコーディネーター」、長尾さんは「組織開発ファシリテーター」という仕事をしていて、長尾さん曰く『2人に共通しているのは何をしているのかよくわからないが、なんとなく大事な仕事でいろいろな仕事をしているようだということ』からこの対談は始まった。
その対談を聞いて、そこから『コロナ禍後の「社会とスポーツと個人の関係」を整理すること』ができるような記事発信をする。
はっきり言って、かなり難しいテーマ・お題だ。「誰が何を話したかっていうのは別にそんなに書かなくていいから、自分がどう感じたかを中心に書いてほしい」という長尾さんの言うことはそれなりに理解できるけれど…。
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COVID-19の影響もあって、あらためてスポーツは最優先ではないものとされる雰囲気がある。それでもスポーツ界で働くひとやアスリートはオンラインでの活動や発信を通してファンを楽しませたり、未来への期待を喚起しようと懸命に動いているが、やはり試合、ゲームのないスポーツはその本領を発揮できていない。
そんな状況で、スポーツやアスリートは世の中に何を「シェア」できるのだろうか。その答えのひとつになるかもしれないものを、この2つのnoteに込めたつもりだ。
1本目の『あの、トミダイだって。/ 長尾彰×冨田大介のはなし#1』では、冨田さんが何度も壁にぶつかりながらも、その度にひとつひとつ武器を身につけ泥臭く闘ってきた姿を中心に描いた。
話を聞いて思ったのは、観る人を興奮させて勇気や感動を与えてくれるプロサッカー選手だって、壁にぶつかり不安を抱え、何度も迷ってきたということ。そして、それは今の予測がつかない社会で過ごす僕らと、そう変わらないということ。この状況で僕らが思い悩むことは至極普通なことであって、そういう自分を受け入れようという、自分への思いへと変換した。
次に書いた『自分の人生に向き合う姿を / 長尾彰×冨田大介のはなし#2』では、冨田さんが引退を決意したエピソードを描いた。
僕は、冨田さんの「自分のため」と「誰かのため」という両輪を繋いでいたのは「自分の人生に向き合う」ということだと感じ、自分自身もそうでありたいと思った。そして、これはもちろん簡単ではないけれど、同時にそこまで大それたことでもないはずなのだ。自分の人生に向き合うのだ。自分にしかできないし、自分ならきっとできることなんだ。そんな風に思った。
話を聞いて、僕は冨田さんを自分にとって雲の上の人だとは思わなかったし、この2つのnoteはそういう風に伝わらないように書きたかった。
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結局のところ、スポーツ、とりわけ選手から世の中に「シェア」される多くのものは、彼ら彼女らの懸命な姿をもって誰かの心に届く。
では、プレーする姿を見せられない今、何をシェアできるのか。
冨田さんが経験した現役引退。華々しい第一線の舞台から退くことは卒業やセレモニーであり、しかしある意味では競技者としての敗北を意味する場合もあるだろう。捉えようによっては、羽を失い、フィールドという空を舞えなくなるという意味になる。どんなに華麗に舞ってきたとしても、そのまま空で死ぬ蝶はいないはずだ。
そう考えた時、今多くのアスリートはそれと同じ状態にあるのではないだろうか。プレーができない今の状態を、羽をもがれたようだと感じているアスリートはきっと多い。
しかし、だからといってスポーツとアスリートは、世の中に何も伝えられないのだろうか。スポーツの、アスリートの価値は全くないのだろうか。きっと今だからこそ見せられる姿をもって、社会の「あなた」にスポーツの「何か」を伝えられるように、僕は思う。
華麗に宙を舞い、僕らファンの心を動かすアスリートたち。羽を失って、しかし彼らは死んでしまったわけではない。きっと僕らと同じように、地上に降り立っている時期なのだと思っている。
”ふつうの人”からすればプロサッカー選手のようなアスリートは、”超人”であり、”スーパーヒーロー”である。しかし、ほんとのところ、彼らも僕らと同じ人間であって、僕らと同じようにこの状況にストレスを感じたり、自分のこれからを不安に思ったり、そして今の自分にできることを暗中模索しているのだ。
そういう「弱さ」を世の中にシェアすることは、サポーターやファン、社会の「あなた」との共通点を生み、距離を近づけ、困難を共に乗り越える仲間となるために機能する可能性を持っている。
そして暗中模索を経て、やはり「強さ」をもっているスポーツの人々はきっと、それでもなお進んでいく。同じ地上という、これまでよりも近くでその姿を目にすることは、もしかすると世の中の「あなた」の心の支えや原動力になるのかもしれないと思った。
冨田さんのこれからは、きっとそれなのだと。そういう思いを巡らし、ここに社会と僕という個人にとってのスポーツの価値があるのかもしれないと、いま僕は思っている。
(でも、アスリートは「弱さ」を見せられないことが多いから、今回の僕のように、代わりに誰かが上手く表現する機会があってもいいのかもしれない。)
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まさに、綺麗にまとまっていない「あとがき」が出来上がっている。書きながらいまだにどこに着地させていいのかわからなくなっているが、ひとつ明らかになっている思いがある。
僕はサッカー指導者だから、冨田さんのように悩みながらも自分で答えを探し、そして進んでいける選手を、人を育てていきたい。「弱さ」もあって、でもそれ以上の「強さ」を求めて、自分の人生に向き合える人。
そのお手本は多ければ多いほどいいし、僕はその価値を”翻訳”して、子どもたちや「あなた」に伝えたいと思っている。
ああ、もしかしてオーダーされていたのはむしろこの文章だったのかもしれない。
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『自分の人生に向き合う姿を / 長尾彰×冨田大介のはなし#2』